経済・政治・国際

「大義なき選挙」に向けて

  「アベノミクスを支持するか否か」を争点とした総選挙が行われようとしている。当初から「大義なき選挙」などと呼ばれてきたが、それ以前の問題として、そもそも争点自体があまりに不適切という以上に無意味で不毛であると言わざるを得ない。

  一つには、 経済政策の成功・失敗というのは、5年10年単位という長期で評価を下すべきものである。2年間弱で安倍政権の経済政策の評価を判断するのは早すぎる。アメリカもようやく5年以上経ってゼロ金利解除が決定されたばかりであるが、それでも失業率はリーマンショック以前の水準には回復していない。オバマ政権は経済政策で着実に実績を残してきたと評価する人は多いが、それでも先の中間選挙で示されたように、アメリカ国民の多くは満足していないのが現状である。

 そして二つには、経済政策や税の問題はきわめて複雑で専門的である。テレビで行われている「わかりやすい解説」に満足している専門家はほとんど稀だろうし、言うまでもなく専門家同士でも意見の対立があり、反増税派が言うように消費増税が「国民生活の破綻」を招くかどうかなど、増税の影響以外の様々な条件を総合的に勘案しなければいけない問題も多い。こうした問題を素人の有権者の判断に委ねることは、そもそも無謀であり、容易にポピュリズムに陥ることになるだろう。

   では有権者が判断できる争点が存在していないのかと言うと、決してそうではない。それは「消費増税を取り止めることで、予定されていた社会保障の機能強化分の撤回や社会保障費の(今まで以上の)抑制を受け入れるか否か」である。
 
消費増税による税収はすべて年金、医療、子育てなど社会保障に充てると法律で決まっているため、再増税を先送りすると、来年度、社会保障サービスの充実に充てられるお金は約4500億円減る。このため、再増税の税収を前提とした施策の絞り込みが迫られている。年金では、再増税時に実施すると法律で決まっていた「弱者対策」が二つあった。

一つは、年金が少ない高齢者や障害者への給付金で、約790万人が対象。保険料を40年納めた人では、月5千円支給することになっていた。来年度は増税分から1900億円を充てる予定だった。

もう一つは、年金の受け取りに必要な保険料の支払期間を、いまの25年から10年に短くするものだ。無年金の人を減らす狙いで、来年度は75億円を充てることにしていた。政権幹部は20日、「年金の充実は無理だ」と年金の弱者対策は来年度に導入できないとの見通しを示し、財務省厚生労働省は見送りの方向で検討に入った。

http://digital.asahi.com/articles/ASGCN5WCGGCNULFA02B.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGCN5WCGGCNULFA02B  
 
 
 この記事にもあるように、毎日の買い物の負担が増えることと、いざという時のセーフティネットがより弱体化することと、どちらが許容可能で貧困者や低所得者によってより負担が低い社会かという争点が、既に目の前に示されている。こうしたネガティヴな選択肢に不満を感じる人もいるだろうが、今の日本ではこうした形の選択肢しか(実現可能なものとしては)提示されていない、という現実から出発する以外にない。少なくとも、こうした争点であればほとんどの有権者は理解可能であり、この国の社会保障の方向性にとっても根本的で重要な争点であると言うことができる。
 
 しかし今のところ、こうした問題は悲惨なほど興味関心を持たれていない。それどころか、こうした争点をツイッター上で慎重に提示した福祉事業者が、アベノミクス支持者によって炎上させられるという騒ぎが起こっている。ツイッター上の真面目に取り上げるに値しない言いがかりや中傷とは言え、有権者が判断可能な争点が争点にならず、逆に素人が判断しようのない専門的な問題が争点になりやすいという、現在の日本の政策論争の問題を象徴的に示している。
 
 国内にある多様な利害対立を争点化し、政治的に組織化していくことは民主主義の基本である。「全国民の利益」を早急に語ろうとする人は多いが、そのような利益が簡単に確定できるとしたら、それはもはや民主主義の社会とは言えないだろう。今回のような、政権与党の経済政策に対する信任投票的な選挙というのは、独裁的な政治体制が民主主義を偽装するために実行しているそれと、意味合い的にはほとんど変わらない。
 
 しかし選挙になった以上、いずれにせよこれを日本の民主主義の深化へとつなげていくことが必要である。そのためには、「アベノミクスの是非」を問うという、首相と政権与党の争点に乗っかるのではなく、それとは別の争点を提示して、多様な利害関心を組織化していくことが、野党やマスメディアおよびネット上で発言力を持つ人々の責任である。

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スウェーデンで福祉ショーヴィニズム政党が躍進中

 スウェーデンでも福祉ショーヴィニズム政党が躍進中という記事が出ていた。

スウェーデン総選挙、極右政党議席獲得の勢い

 北欧スウェーデンで19日に実施される総選挙(定数349、比例制)で、移民排斥を公約する極右の小政党・民主党が初めて議席を獲得する勢いを示している。

 中道右派の与党連合、4年ぶりの政権奪回を狙う左派の野党連合とも過半数に達しない場合、民主党が次期政権の枠組みのカギを握り、混乱が起きかねないとの懸念が強まっている。

 14日公表された世論調査では、ラインフェルト首相の穏健党が主導する与党4党連合の支持率は50・3%。社会民主労働党を中心とする野党の左派3党連合の43・8%を上回っているが、過半数を確実に超えるとは言えない状況だ。

 こうしたなか、存在感を強めているのが「イスラム教徒は社会の脅威」と公言してはばからないスウェーデン民主党だ。前回総選挙での得票率は2・9%だったが、最近の世論調査では4~8%の支持を得ており、議席獲得の条件である「4%以上の得票」を満たす可能性が高まっている。

 同党のジミー・オーケソン党首(31)は読売新聞との会見で「仕事をせず、税金も払わない移民に失業手当などの特典を与え、社会福祉制度のただ乗りを認め続ければ、今の制度は崩壊する」と断言。「7~9%は得票し、国会でキングメーカーになりたい」と述べ、次期政権の枠組み作りで主導権を握ることへの意欲をみなぎらせた。(ストックホルムで 大内佐紀)

(2010年9月16日20時04分  読売新聞)
 過去のスウェーデンや北欧諸国の実績からすると、ワークフェアと社会保障を同時に強化することで乗り越えてきた、つまり就労支援・促進を通じた移民の社会統合という道を歩んできたわけであるが、今回はどのように対処するのか注視されるところである。

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ナショナリズムと福祉国家

ナショナリズムと福祉国家の関係

 「福祉国家」や社会保障の問題を学んでいる人は、それがしばしばナショナリズムと結びつくという問題に直面する。古いところでは、スウェーデンの経済学者であるグンナー・ミュルダールが提起した、「福祉国家の国民主義的限界」問題が有名である。ナショナリズムと福祉国家の関係は、一般的に言うと、以下の二点にまとめることができる。

 第1には、国家が再分配活動を行うためには、社会サービスの給付の権利を有する成員資格を、明確に定義しておく必要がある。たとえば企業の場合、株式を購入する権利は原理上万人に開かれており、成員資格を事前に定義しておく必要は基本的にないが、国家は保険証や年金手帳を給付する範囲をあらかじめ決定しておかなければならず、その際の定義の根拠として「民族」が持ち出されることになる。

 第2に、税や社会保険の負担を国民全員が等しく共有するための、連帯と共同性の基盤としてである。たとえば、富裕層が低所得者への再分配に応じるとしたら、それは「同じ国の一員だから」という以上の合理的な理由で説明するのは難しい。統治者の側がそうした理由を押し付けることもあるし、世論が「おなじ国民なのに」という理由で、税や社会保険を「平等に負担」するように圧力をかけることもある。

 ちなみに、第1の点に付け加えると、社会保険のような間接的な再分配よりも、「ベーシックインカム」のような直接的な再分配ほどナショナリスト的にならざるを得ない。それは、社会保険の場合は給付資格要件として保険料負担の実績が第一に考慮されるが、「ベーシックインカム」の場合は、否応なくメンバーシップに一元化されてしまうからである。これは濱口桂一郎氏が「ベーシックインカム」批判で提起した論点である(それが「危険」であるかどうかについては判断を保留しておく)。

現在においても果たして自明なのか

 ナショナリズムと福祉国家の関係は、『ベヴァリッジ報告』に象徴されるように、また日本の国民健康保険が戦時中の人口増産政策と連動して成立・普及したように、総力戦体制の中で最も強力に表現されたものである。とくに1970年代以降の哲学や社会学では、フーコーの「生権力」概念などに依拠する形で、「福祉」の名の下による国家による生の強制や画一化といった問題が批判的に語られるようなった。福祉国家が成立する段階において、「民族」「人種」の観念に基づく優生思想や隔離政策が大きな役割を果たしていたことは今更説明するまでもない。

 しかし、上述のようなナショナリズムと福祉国家の積極的な関係は、現在においても果たして自明なのだろうか。もちろんナショナリズムを広く解釈すれば、「人口」をターゲットとする少子化対策は、その中身が何であろうと戦時中の「産めよ殖やせよ」政策と同一線上にある、ということになるだろう。ただ、そうした広い解釈をとりはじめると、おそらくナショナリズムと無関係な社会保障政策は一つもなく、ひいては近代社会そのものがナショナリズムに汚染されているという結論にならざるを得ない(そういう議論が流行った時期もあったが)。

あえて否定的な関係として理解する

 では「ナショナリズム」を、より一般的に用いられているように、「外国人」に対する嫌悪感や競争意識に基づく攻撃・排除という意味に限定すればどうであろうか。それは「場合による」としか言いようがないが、ここでは両者の密接な関係を強調してきた従来の左派系の学者の議論に対する批判の意味も込めて、あえて否定的な関係として理解しておきたい。その理由は以下の通りである。

 第1に、日本を含めて現在の先進諸国の社会保障制度は、既にナショナリティは社会サービスの受給資格要件として機能していない。多くの国では、ナショナリティと市民権との結びつきは、もはや選挙権(特に国政選挙権)の他には、オリンピックやW杯のナショナル・チームの参加資格といったものに限定されるようになっている。だから現在、社会保障の充実を政策課題として掲げる場合、それは必然的に外国人の社会的な統合・包摂を志向するものになる。事実、EU諸国が必要以上に社会保障が充実しているように見えるのは、民族問題という歴史的な背景を抜きには語れないであろう。

 第2に、世界各国で社会保障制度が整備されるようになれば、国境を超えた人の移動、特に従来のような富裕層や最貧困層以外の労働移動が促進される可能性が高い。とくに、北欧モデルのように社会保障制度の出発点に「教育」があるとすると、教育水準の向上は外国語の習得可能性を高め、結果として外国への労働移動のチャンスを増やすことになるはずである。福祉国家と「グローバル化」とは、相反するというよりも親和性が高いと理解すべきである。

 第3に、社会保障制度の維持・強化を目指す過程でナショナリズムが語られているのか、それともあくまで福祉が、ナショナリズムが発露する(主要な)「舞台」の一つになっているに過ぎないのかは、慎重に区別して論じる必要がある。私の評価では、いわゆる「福祉ナショナリズム」というのは、基本的に後者のケースが大多数だと考えている。つまり、社会保障への利害関心から外国人へ反感が派生したというよりも、もともと外国人への反感を抱いていた人たちが、たとえば社会保障財政の逼迫が政治的な話題になった時に、「移民が国の福祉にただ乗りしている」という攻撃を繰り広げていると理解したほうがよい。「福祉ナショナリズム」の多くは、政治的な志向性としては概ね反福祉的である。そもそもミュルダールの「国民主義的限界」も、「ナショナリズム」というよりも「内向き志向」ぐらいの意味に理解すべきものである。

 最後に、特に現在の日本におけるナショナリズムでは、社会保障の問題はほとんど無関心である。おそらく、北一輝や戦時中の厚生官僚の言説にまで遡らないと、両者の密接な関係は見えてこないだろう。可能性としては岸信介だが、そもそも彼は「反共」であったかもしれないが、狭義のナショナリストと言えるかどうかは微妙である。

反省しなければいけない問題

 福祉とナショナリズムの組み合わせは意外性を喚起するので、両者の密接な結びつきを強調したがる人は(特に人文系の知識人に)少なくない。実のところ、自分もそれに少なからず影響されていたのだが、しかし今振り返ると、個人的にはその不毛さのほうが目立っているように思う。また福祉国家の限界を語る、それ自体は真摯な問題意識に基づく議論が、「多様な生の自己決定」の名のもとに、福祉給付削減の論理と図らずも共振してしまったことも、反省しなければいけない問題である。ミュルダールの「国民主義的限界」を超えた「福祉世界」への展望も馬鹿にできないとは思うのだが、今のところは、生活・生存の保障がナショナリズムの攻撃的・排他的側面を緩和する可能性がある(実際緩和に成功してきた)ということを言えれば十分であると考える。

追記:

 コッソリ書いたつもりが、濱口先生に大々的に取り上げていただくはめに・・・・。恐縮で脂汗が。

 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-aa63.html

 グウの音も出ない感じですが・・・。とくに第3の論点ですが、確かに「福祉ショービニズムをあおっている政治家やイデオローグ」だけを念頭に置いていて、つい世論の問題を抜かしてしまいました。世論については全くおっしゃる通りで、確かに世論にとってナショナリズムは後からくっついていくものです(日本では多分公務員たたきになっているんでしょうが)。これはまた、機会を改めて考え直したいと思います。

 上の文章で問いたかったのは、要するに現代社会で「福祉国家」形成を促進すると、(狭義の)「ナショナリズム」が激化するかのか否かという問題で、それが否定的であるということを「あえて」指摘したかったということです。というのも、福祉国家とナショナリズムの関係が問題にされるときに、「福祉国家の原罪」(「それを意識していないと暴力に容易に転化するぞ」)みたいな語られた方が多くて、それに多分に影響もされているんですが、なんかそういうものにややウンザリしているところもあって、それとは違う話を思いつきで書いたわけですが・・・・・・。

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現代日本における民主主義の危機

「無党派層」の消滅

 2005年の「郵政解散選挙」以降、日本の民主主義が明らかにおかしなことになっている。選挙のたびに極端な結果が出現し、それが1年も経たないうちに失望や幻滅へと急転直下するという、その繰り返しになっている。多くの国民・有権者が、どの政治家や政党を支持したらいいのかについて、完全に途方に暮れている状態であると言ってよい。

 これは、従来言われてきた「無党派層化」なのではない。無党派層とは既成政党の「間」をとるという意味であるが、今の有権者はむしろ、その時々の選挙で自民党や民主党の熱狂的な支持に回っている。そして、その支持が1年と続かないところにも特徴がある。無党派層とは、あくまで既成政党の支持が安定している時代に意味をもった概念であり、現在は無党派層が消滅したと表現したほうが適切である。

「構造改革」と政治疎外

 どうしてこんなことになっているのか。私はやはり、一つに橋本政権から小泉政権に至るまでの「構造改革」に原因があると考えている。「構造改革」では公共部門の「民営化」が進んだが、それによって公共的な問題に対して政治が関与できる領域が狭まってしまい、結果として一部のブレインや財界関係者による(責任の伴わない)独断的な政治が強まった。「民営化」それ自体は民意の支持の下に推進されたものであるが、皮肉にも、そのことが国民の間に強い政治的な疎外感を生み出すことになったのである。

 「かんぽの宿」の売却問題が、この矛盾の象徴である。本来なら、とくに有権者が「郵政民営化」を支持したなら、経営者が市場価格に基づいて施設を売却することを非難するのはおかしい。しかし、世論は公共的な財産が一部の利害関係者のほしいままにされている、と強い反発を示した。「構造改革」を支持してきたエコノミストたちは、世論に対して「売却は当然」と強く反論したが、それ自体は正しかったとしても、民営化が「民主的なコントロールからは離れる」という側面があることをきちんと説明してこなかったことは、彼らの大きな責任である。

 地方政治もそうである。規制緩和の流れの中で、東京資本の大型店舗やコンビニが地方の風景を席巻して日常生活に欠かせないものになった。そのことは、いわゆる「まちづくり」が、東京の高層ビルの会議室における決定に大きく依存するようになり、地域住民が主体的に関与する余地が少なくなったことを意味している。いま「地域主権」を掲げる政治家たちは「霞が関」批判が中心で、こうした問題についてはまるで無関心であるのが不思議である。

 そして最後に、大幅な歳出削減と増税回避(むしろ減税推進)が、結果として政治が関与できる領域を著しく狭めている。つまり、住民が政治に何かを求めようとしても、「財源がない」ということで、一方的にはねつけられる局面が増えているのである。例えば銚子市では、地域で唯一の総合病院の存続を住民が圧倒的に支持し、その存続を公約に掲げた市長が当選にしているにも関わらず、財源問題によって廃止されてしまったわけである。

「脱官僚」と「友愛」の矛盾

 鳩山民主党政権では、以上のような「構造改革」による政治疎外を埋めるべく、「脱官僚=政治主導」と「友愛」のスローガンを掲げている。しかし今のところ、「友愛」は政治的な混乱にさらに拍車をかけている状態にある。これについて、『現代思想』2月号で野口雅弘という政治学者が、日本の政治における「脱官僚」の矛盾を鋭く指摘していて興味深かったので(「「脱官僚」 と決定の負荷 ― 政治的ロマン主義をめぐる考察」)、それに即して述べておきたい。

 「脱官僚」というのは、政治的な決定の領域が拡大するということであるが、政治というのは、カール・シュミットによれば「敵」が誰であるかの「決断」を回避することができない。野口氏によると、鳩山政権における「友愛」のスローガンは、「敵」を作らないがための際限のない決断の先送りを生み出し、相対的に声の大きい人物(亀井静香など)の存在感を異様に高める結果だけになっているというのである。

 さらに上述のように、政治的な決定の領域そのものが、「構造改革」のなかで急激に狭まってしまっている。「脱官僚」がそのまま「政治主導」にならないというジレンマのなかで、国民の政治的な疎外感は一向に解消されず、「決断不足」ばかりが目立つようになっているのである。

「決断主義」のポピュリズム

 以上のように、現在は「構造改革」の中で深まった政治的疎外と、民主党政権における不決断とが重なって、途方もない政治不信を生み出している状態であると言ってよいだろう。その結果として、政治理念や政策そのものの評価ではなく、「決断力がない」「政治手法が古い」というただそれだけの理由で、内閣支持率が急落するようになっている。郵政社長の人事問題、「小沢支配」の問題、普天間基地の移転問題などはすべて「決断力のなさ」や「政治手法の古さ」によって批判された問題であり、それらの問題を具体的にどうしたいのかについてはさっぱり語られない(少なくとも盛り上がっていない)という状態にある。

 いま国民から拍手喝采を受けている「民主主義」とは、小泉元首相が採ったような、まず「危機」や「非常事態」を宣言した上で、わかりやすい「敵」を設定して一方的に攻撃するというものである。まさにシュミットの「決断主義」をポピュリズム化したような手法である(周知のようにシュミット自身この誘惑に負けてしてしまったのであるが)。ただし、自民党の「古い政治」の派閥抗争のなかで鍛えられてきた小泉元首相には、よくも悪くもユーモアやいい加減さがあり、清濁併せ呑む懐の深さがあった。この「決断主義」が、近年だんだん生真面目になっている傾向があるように思われるのだが、それには非常に危険なものを感じる。

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市場競争下の「引き下げデモクラシー」 

 濱口桂一郎氏のブログでharuto氏という人がコメント欄に興味深いことを書いていた。

「引き下げデモクラシー」を現在主に提唱している、戦争を待望する元コンビニバイト、放送局勤務を経て現在大学院教授、メーカー勤務を経て人事コンサルタント、といった「男性」に共通するのは、「正社員経験がありその後何らかの理由により退職した」という「事実」ですね。その詳細をケーススタディとして分析することはアクティベーションを考えるうえでも必要ではないかと思います。

思うにこの「男性」たちは「自分と自分が所属していた組織とのあいだの軋轢、確執」を「自己対象化」しながら考えることができていない。「個人的な怨恨」と「社会的な問題」の区別がついてない。なので、「引き下げ」が自己目的化する。

こうした「男性」たちの存在が逆に、労働組合による労使間の関係調整の必要性を照射しているとも言えますね。この「男性」たちはみんな「雇用の流動化のためには労働組合は不要」だと考えているわけですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-4601.html

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書) Book 生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

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 「引き下げデモクラシー」というのは、一言で言うと、旧来の「日本型福祉」を享受できている層がますます縮小している傾向にあるにも関わらず、「日本型福祉」を前提とした社会の仕組みや人々の意識が強固に残っているために起こっている、と理解することができる。

 だから、「引き下げデモクラシー」にはまりやすいのは、自分も「日本型福祉」を享受できるはずだったのにできなかった、あるいは期待ほどではなかったという不満や失望感を潜在的に抱えている人たちである。

 これは若い世代の非正規雇用層だけではなく、高齢の年金生活者層も含まれると考える必要がある。というのは、年金生活者層は社会保障制度の将来に不安を感じずにはいられないような報道を日々耳にしているだけではなく、息子や娘が自分たちの世代のように順調に就職・結婚することなく、不安定で見通しの立たない生活を送っていることが多いためである。むしろ、「こんなはずではなかったのに」という想いは、「黄金時代」をリアルタイムで知っているこの世代のほうにこそ強いかもしれない。

 この「引き下げデモクラシー」 は、しばしば億単位の年収を稼いでいる経済人の規制緩和論と共振しあうことがある。これは不思議なことでもなんでもなく、戦前・戦時の「引き下げデモクラシー」が軍隊の平等性をベースにしていたのに対して、現在の「引き下げデモクラシー」 は市場における競争とリスクの平等性をベースにしているためである。

 つまり、前者では「引き下げ」の対象が、町内会の防火訓練への参加を渋るような特権的な富裕層であったのに対して、後者では解雇や賃下げのリスクもない(と少なくとも思われている)安定した正規の社員・職員に地位に収まっている旧中間層(特に公務員)に向けられている。逆に言うと、経済的な強者である企業経営者に非難の目がさほど強く向けられないのは、彼らが市場競争の「最前線で戦っている」ためである。だからこの結果として、「引き下げデモクラシー」 を求めて経済格差がかえって強まる、という皮肉な現象が起こっているわけである。

 小泉・安部政権時代の「構造改革」を依然として高く評価する規制緩和論者は、民主党の分配政策などを「社会主義的」だと非難することがある。しかし、私に言わせれば、彼らが公務員や正社員層の「既得権」を批判するときの口調にこそ、「社会主義的」なものを強く感じる。彼らがどこまで意図しているかはともかく、それは事実として、明らかに「引き下げデモクラシー」 に加担しているのである。

 税収の2倍以上の予算を組む民主党政権に対して、「税収に見合った政策を立てるべきだ」と批判している経済学者の主張を新聞で読んだ。専門家としてはそのように言うしかないのだろうが、これは悪くすると厳しい財政のもとで国民は文句も言わず我慢するべきだという、「引き下げデモクラシー」 を推し進めるものでしかなくなる。むしろ、民主党政権の経済政策を批判すること自体は必要であるにしても、税制改革や経済政策などによって税収を増やすことはいくらでも可能である、という前向きな議論を構築していくことを専門家には期待したい。

参考: 現代日本の引き下げデモクラシー http://maishuhyouron.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-85a6.html

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ベーシック・インカム的な福祉国家の可能性

 この1年の間に、「ベーシック・インカム」の議論が急速に盛んになっている。ここでも何度か言及したが、まだまだ一般的な認知は低いものの、明らかに一つの議論として市民権を得はじめている。

貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか Book 貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか

著者:橘木 俊詔,山森 亮
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 私も流行に流されて色んな本を手にとってみたが、個人的な立場はどちらかというと否定的な方向にある。まず既存のベーシック・インカム論を簡単にまとめた上で、それに否定的な理由について論じておきたい。

■三つのベーシック・インカム

 ベーシック・インカムの手法としては、具体的には以下の三つがある。

(1)完全ベーシック・インカム: 属性や所得の壁を完全に取り払い、国民全員に一律に同等の金銭給付を行うもの。この立場は、ベーシック・インカムを純粋に政治哲学として議論している人に多い。

(2)負の所得税: 所得税の累進課税を強化した上で、課税最低限を下回る所得の人には、所得水準に応じて金銭を直接給付するというもの。この立場は、ベーシック・インカムを政策論的に推進しようとする人(特に経済学者)に多い。

(3)給付つき税額控除: 減税政策や消費税の増税などを行った際に、一定の所得以下の人に減税分や増税分を直接給付するというもの。これは一部の国では既に導入され、日本でも具体的に検討されている。

■ベーシック・インカムの三つの長所

 このように、ベーシック・インカムは、再分配を金銭による直接給付によって行おうとするものであり、これは従来の「福祉国家」による制度的な再分配とは根本的に対立するものである。「福祉国家」と比較して、ベーシック・インカムの長所は、以下の三点に集約することが出来る。

(1)再分配のプロセスの透明性が高くなる。例えば、生活保護の受給者がバッシングに遭いやすいのは、制度運営に行政の恣意的な判断が強く働いているためである。ベーシック・インカムには、こうした恣意が介入する余地が少なく、国民の間の疑心暗鬼や不公平感を和らげることができる。

(2)分配された資源をどのように使うべきかについて、個人が決定する自由度が高まる。福祉国家では平等な再分配が生活の画一化をもたらしがちであったが、ベーシック・インカムはライフスタイルや文化の多様性との両立を可能にする。

(3)分配の手続きがはるかに簡素になり、行政コストが大幅に削減できる可能性がある。福祉国家には、制度を運営するコストが必要以上に膨張する傾向があり、ベーシック・インカムはこの問題を解消する有効なアプローチである。

■ベーシック・インカムに対する三つの批判

 以上の既存のベーシック・インカム論を踏まえた上で、少なくとも今の日本におけるベーシック・インカムの導入に対して、私がどうして否定的なのかを、簡単に述べておきたい。

 第一に、既存の社会保障制度と激しく衝突せざるを得ない。

 少なくとも、完全ベーシック・インカムあるいは負の所得税を導入する場合には、社会保険方式とは両立できないことは明らかである。ベーシック・インカムを導入しなければならないほど、現行の社会保障制度が修復不能なほど機能不全に陥っているのかと言われれば、やはり首を傾げざるを得ない。とくに、長い間医療保険や年金を支払ってきた人たちの「既得権」について、一体どう考えるのだろうか。

 第二に、経営者による安易な解雇がこれまで以上に横行する可能性がある。

 これまでの日本で解雇要件が厳しかったのは、労働者が企業という共同体のメンバーであり、生活上のコストを会社がすべて負担するという、日本型経営の雇用システムを前提にしてきたからである。そして、労働者の生活と生存がすべて企業に依存しているということは、経営者の側にも安易な解雇に対する心理的な歯止めになっていた。

 だから、ベーシック・インカムが導入されて、解雇されても最低限の生活が送れるようになるということは、経営者の解雇に対する心理的な負担が大幅に減ることを意味する。とくに日本のように労働組合の力が圧倒的に弱い社会では、安易な整理解雇が横行することになって、結果的に財政が破綻する可能性が高い。

 これに比べて、雇用と社会保障が結びついている「福祉国家」の場合は、もう少し解雇への歯止めがかかりやすいと考えられる。

 第三に、結局のところ社会的弱者に対する具体的な支援の道筋が不在である。

 ベーシック・インカムは、再分配を直接的な金銭給付に縮減し、「福祉国家」のような政策的・制度的な再分配についてはほとんど行わない。そうすると、たとえば貧困者に月8万の給付がなされたとしても、社会的な上昇の回路は依然として不在のままであるので、その少ない給付で生涯にわたって細々と暮らし続けていく人々が増える可能性がある。

 働かない人間がいても構わないじゃないか、と言い切るベーシック・インカム論者もいる。それ自体はその通りだとしても、現実にはあまりに無責任であろうし(「構わない」という世論が実際に形成される見込みは限りなく薄いから)、社会の持続可能な再生産という観点からも限界があることは明らかである。

 貧困者に対する具体的な支援は、政府ではなく民間企業とNPOに委ねればいいし、またそうあるべきだという人もいるかもしれない。しかし、日本では企業の社会活動の伝統もなければ、NPOの力量も依然として非常に脆弱であり、その運営費はほとんど税金による支援である。そもそも日本では、NPOの大前提となる寄付文化が皆無に等しい。
 
 むしろ、ベーシック・インカムは、悪くすると「税金で食っている癖に」「ちゃんと最低限の生活費は保障されているのに」と、社会的な弱者に対する自己責任論を蔓延させるだけの危険性もある。そもそも、貧困者は働く能力が低い(少なくともそう評価されている)からこそ貧困に陥っているのに、その原因に対する手当てなしに金銭だけが給付されても、何の根本的な問題解決にもならないだろう。

■「ベーシック・インカム的な福祉国家」の可能性

 以上のように、私自身はベーシック・インカム論については、もし部分的な導入以上のもの(完全ベーシックインカムおよび負の所得税)を考えているとしたら、現実の政策としては全くのナンセンスだと考えている。

 しかし、再分配の規範的な哲学としては、ベーシック・インカムは割合によく出来ているとも評価している。だから矛盾するようだけど、この哲学を基礎にして、現実には福祉国家的な制度的な再分配で対処するというのが好ましいと考えている。

 ベーシック・インカム論に飛びつく貧困運動の当事者には、「努力」や「働く意志」の名の下に貧困者を暴力的に排除してきた、これまでの社会保障制度のあり方に対する問題意識も多分に含まれている。確かに既存の福祉国家にも、少なくとも日本におけるそれ(「開発主義国家」と呼ぶほうが適切だろうが)には、労働や社会参加を事実上強制したり、分配が恣意的・選別的になってしまうような要素が存在していた。そしてそのことは、結果的に政府への不信感を醸成する原因にもなっていた。ベーシック・インカムには、こうした福祉国家の問題点を不断に修正していくための、規範的な哲学を提供する役割を期待したいのである。 

 この「ベーシック・インカム的な福祉国家」というのは、確かに論理的には根本的な矛盾であり、個人的にもまだ全く整理できていない問題だが、とりあえず今のところは、この方向性で再分配の問題を追及していこうと考えている。

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「負担の再分配」はどうして難しいのか

 多数派の日本国民は「福祉国家」を望んでいるにも関わらず、政府には厳しい歳出削減を求め、増税に対しては猛烈な拒否反応を示し、「既得権益層」を見つけてはバッシングして増税拒否を正当化するという矛盾した世論があります。日本では「負担の再分配」は、どうしてかくも難しいのでしょうか。何度か書いてきましたが、また改めてまとめておくことにします。

 第一には、日本の社会保障制度が「官僚主導」の歴史を持っていることです。現在のような日本の社会保障制度が確立したのは1960年前後と1973年なのですが、これは完全に一部の厚生官僚と、岸信介や田中角栄といった豪腕政治家によって主導されたもので、国民がこうした社会保障政策の決定に関与したという経験や記憶はありません。この時期は安保闘争や学生運動が盛んだった時期なのですが、まったく話題になっていませんでした。このような、福祉が官僚によって上から与えられたものであるという経験が、社会保障をめぐる問題を第一義的に官僚の責任にさせ、官僚が本当にギリギリになるまで追い詰められなければ、国民が負担に応じる理由はないという世論につながっていくことになります。

 第二には、過去の分配の方法が業界・団体単位で行われてきたことです。日本の政府は国民に普遍的な社会保障を提供するよりも、地方の土建業界に公共事業を、農協(農家ではなく)に補助金を、といった形で個別的に支援を施すやり方をとってきました。「護送船団方式」などと呼ばれる、金融機関の保護・規制もこれに入れてよいかもしれません。これは政治家と官僚に必然的に「利権」を発生させやすい方法だったのですが、経済が好調で財政的にも余裕のあった時期には、政治ジャーナリストのネタになる程度で済んでいました。しかし、経済が停滞して財政が厳しくなってくると、一部の業界・団体とそれに癒着している政治家・官僚だけが得をしているだけではないか、という疑心暗鬼を生むことにもなります。結果として、こうした「利権」を解体して「無駄な公共事業」などを大幅に減らさなければ、増税には応じられないという世論につながっていくわけです。

 第三には、「企業福祉」の伝統です。日本の企業組織は社員に過酷な長時間労働を課す一方で、よほどのことがない限り解雇はせず、さまざまな住宅や子供の教育などの厚生福利を社員に提供してきました。こうした企業福祉の経験は、自分たちの生活を向上させるためにはまず企業の体力を強化することが重要であり、増税によってセーフティネットを構築するまでもないという、いわゆる「新自由主義的」な経済政策を自然のものとして受け入れる基盤となります。さらに日本は企業ごとに賃金体系や昇進システムが異なり、正規/非正規のメンバーシップによって待遇が極端に異なるため、企業を横断したセーフティネットを構築するために負担を再分配するということへの合意の獲得が、どうしても難しくなります。

 最後に、労働組合の組織力が弱い上に、企業別に組織化されていることです。北欧の福祉国家は労働組合の組織力が極めて高く、そのことが社会保障を充実させるかわりに賃下げや増税にも応じるという交渉力を可能にしてきたのですが、日本の場合は労組が企業ごとに分断されていることもあり、せいぜい個々の企業で賃金のベースアップや雇用維持を確保する程度の力しか持っていません。言い方は悪いですが、日本の労組は経営者に「おねだり」をするくらいのことしかしてこなかったし、またできないのです。

 日本国民は負担の再分配自体を嫌がっているわけでは決してありません。実際、世界に類を見ない日本人の長時間労働は、個々の労働現場においては人々が負担の分配をいとわず引き受けていることの証拠です。しかし、この精神が「自分はこんなに身を切って働いているのに」という自意識となり、国政レベルではかえって公務員などへのバッシングを引き起こしているように思います。個々の現場で発揮している負担の再分配を、全体につなげていくことができないだろうかというのは、常々考えるところです。

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北欧モデルは日本に適当なのか

再び勝間和代氏ネタであるが、彼女が毎日jpで行っている「クロストーク」における読者のベストアンサーから。

 貧困率が世界最下位の北欧の国、デンマークで働いている者です。
 
 デンマークでは、法人税を一律25%と低く据え置く一方で、所得税は最低でも45%、最高で67%と世界でも最も高い水準に保たれています。課税最低限も低く置かれているため、短時間労働者も含めてほぼすべての労働者が45%以上の所得税を支払っています。
 
 課税は世帯単位ではなく個人単位で、配偶者控除や扶養控除などの世帯を前提にした控除もありません。この個人単位の課税は、労働参加率が高い(共働き率は90%以上)ことにより可能になっています。
 
 消費税は一律25%で食品や子供用品などに対する減免もありません。新車に対する課税(本体価格の190%)、ガソリン税、たばこ税なども他の先進国に比べ非常に高い水準にあります。
 
 健康保険料や年金、失業保険は基本的に税金として徴収されているため、これらへの別立てでの支出はごく限られています。
 
 例外なく国民から広く税金を徴収し、これを財源に積極的に政府が所得の再分配を行っているため、人々の政治に対する関心は非常に高く、国政選挙の投票率は常に90%近くまで達します。ただし、減税・増税といった単純な議論が票を分けることはなく、再分配の方法を含めた社会システム全体に人々の関心が集まります。
 
 シンクタンクなどの調査で、毎年のようにデンマークは「世界一幸福度の高い国」に選ばれますが、積極的な所得の再分配を推し進める大きな政府の存在が国民の満足度に貢献しているのは紛れも無い事実だと実感しています。

http://mainichi.jp/select/biz/katsuma/crosstalk/2009/11/post-31.html#comments

 世界的な流れとして、これからは北欧およびオランダやデンマークなどにおける「ワークシェア」や「フレクシキュリティ」が雇用・福祉のモデルになっていくであろうこと、そしてそれが現時点で比較的に望ましいものであることは、まったく否定しない。

 これを一応スウェーデンなどを含めて便宜的に「北欧モデル」と呼んでおくことにするが、ただやはり、日本に適用するにはあまりに留保条件が多すぎるように思う。よく言われるのは国のサイズの違いということであるが、むしろより重要なのは以下の二点である。

 第一に、労働組合の組織率が非常に高く、経済政策に対する発言力も総じて強いことである。北欧モデルにおける労働者組織は、賃金のベースアップを求めるだけではなく、場合によっては賃下げや増税政策に全労働者を従わせる力を持っている。「ワークシェア」や「フレクシキュリティ」が可能になっているのは、労働組合の組織力の強さ抜きには語れない。

 それに対して日本では、労働組合の組織率が低い上に、世間からは「既得権益層」と見られがちで、非正規を含めた広範な労働者の利害を代表しているとは思われていない。そして労働組合が出来ることも、せいぜい賃金の微々たるベースアップでしかない。このように、経営者に比べて労働者団体の発言力や正統性が圧倒的に弱い条件で「北欧モデル」を導入すれば、「ワークシェア」や「フレクシキュリティ」が経営者側による一方的な賃下げを招くだけではなく、労働者の側にも劣悪な条件で働かされるよりも国の福祉に頼って細々と生きていくほうがいい、という態度を蔓延させ、結果として財政を崩壊させることになるだろう。「北欧モデル」がうまくいっているとしたら、それは安易な賃下げや解雇を労働者組織が抑制しているからである。

 第二に、そもそも公的サービスの質や、それに対する国民の期待値もあまり高くないことである。北欧在住の日本人のブログを読むと、行政の対応は日本に比べても遅く、病院も行ったその日に受診できるということは基本的にないなど、「間違いなく日本より不便」であると断言している(http://plaza.rakuten.co.jp/gaksuzuki34/diary/200712300001/)。官僚や医者も、一部のエリートを除けば、日本に比べても社会的な威信は低いと言われている。

 要するに北欧モデルは、あくまで教育や医療などの基本的な生活コストについての心配がいらないかわりに、サービスの質を高めようという意欲は無に等しく、また国民の多くも特に期待していないのである。それに対して、行政や病院の懇切丁寧な対応を当然視している日本人が、とくに国際的にみて少ない公務員や医者の人数を相当に劇的に増やすことなしに北欧モデルを導入すれば、一体どうなるだろうか。膨大な要求やクレームによって、現場の負担がとても耐えられないものになることが、容易に予想されるだろう。

 つまり、北欧モデルを日本に導入するためには、増税や行政・医療の従事者の人員増加はもちろんのことであるが、労働組合の組織力を高めることと、そして行政や病院など公的サービスへの期待値を下げることが必要になる。「ワークシェア」「フレクシキュリティ」を称揚する人のなかには、労働組合をやたらに「既得権益者」扱いして批判したり、「官僚組織の無駄」を大声で言い立てるような人もいる。まったくの支離滅裂としか言いようのない議論だが、いまの民主党政権と日本の世論は、全体としてこの方向に流れているように思われる。

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インフレ政策論争についての雑感

国家戦略室への提言「まず、デフレを止めよう~若年失業と財政再建の問題解決に向けて」  勝間和代公式ブログ

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上記の説明について、菅大臣との主たる質疑応答は、以下のとおりでした。

Q1 非常に魅力的な提案だが、それは要は、貨幣発行量を増やし、国債を発行すると言うこと

A1 そうです。モノに比べて、貨幣が足りない状況なので、国債と引き替えに貨幣を発行し、その国債を日銀が引き受けて、市場に供給する。その収入を、環境、農業、介護など、いま投資が必要な分野に投入します。

Q2 日銀に明日からやれ、といったら、やるのか

A2 はい、できます。必要だったら、私も一緒に行きます。日銀は国民から選ばれたわけではないので、迷いがありますから、選ばれている政府のリーダーシップと、今回の署名のような、国民の声の後押しが重要です。

Q3 こういうことを行いたいという声は党内にもなるが、国債を発行を増やすと、利率が上がって問題になるということが自分も含めて、懸念される

A3 すでに実質ベースで見ると、国債の利率はとてつもない高いことを理解すべき。利子率は名目ベースに物価の上昇・下落を合わせた実質ベースで見ないといけない。脱・デフレ対策を行えば、実質ベースの利率は下がる可能性が高い。

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http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/private/2009/11/post-288b.html

 今や「時の人」である勝間和代氏が、民主党の国家戦略室のヒアリングでインフレ政策を提案したことで、ネット上を中心にインフレ政策論争が一挙に盛り上がっている。マクロ経済学をまともに勉強したことがないので、現在華やかに語られているインフレ政策が正しいのかどうかの判断はできない(そもそも私は、経済の専門家と呼ばれる人たちに対して全般的に不信感がある)が、あくまで外野から眺めているかぎり、推進派のほうが明らかに支持できるように思われる。というのは、日銀がインフレを起こせるのかどうかとかいうテクニカルな話ではなく、現在の日本経済の問題の所在に対する認識がより説得的であるという点にある。

 インフレ政策を推進する人たちは、現在の日本経済の根本問題を、若年層を中心とする需要不足に基づく需給のギャップにあると考えている。日本の潜在成長率はもともと高く、一次大戦後のドイツや現在のジンバブエのように、経済制度そのものが崩壊しているわけでは全くないから、ハイパーインフレを懸念する必要も全くないという、そういう理解に基づいている。だから、今の日本で緊急に必要なのは生産性を上げることではなく、インフレによって投資や消費のインセンティヴを高めて需給ギャップを解消することにある、ということになる。

 しかし、インフレ政策を批判する人たちは、要するに企業や労働者に競争力をつけさせなければインフレを起こしても何の問題の解決にもならない、という考え方をしている。だから新しい産業のイノベーションとか、より徹底した規制緩和とか、そうした「構造改革」のアプローチを好む傾向がある。実際批判派は、「現在の日本経済の問題は需要不足にあるからこそインフレ政策に反対する」という議論はほとんどなく、「潜在成長率」を高めることが最優先の課題だという認識に基づいている。

 インフレ政策論争そのものはどこか神学論争的であり、経済の専門家への幻滅感のほうがかえって強まるのだが、推進派と批判派の両者を比較すれば推進派のほうが説得的であることは間違いないように思われる。というのは、批判派たちの日本経済の現状についての認識が、明らかに適切ではないと考えるからである。そもそも、批判派が何を根拠にして「潜在成長率が低い」という危機感を持っているのかが、よくわからない(潜在成長率の国際比較というのがあるのだろうか?)。人口減については容易に条件を変えられるものではないし、技術力や消費サービスの水準も、実感やテレビ・新聞レベルの情報に接する限りでも決して低いとは思えない。日本の労働生産性の低さにしても、労働者の生産能力が低いのではなく、賃金以外のセーフティネットが薄いために長時間労働のインセンティヴが強くなっている、という説明が最も説得力がある。よって、不適切な現状認識から適切な経済政策が導き出されるとは思えない以上、批判派の議論は全く支持できるものではない。

 インフレ推進派の主張は、社会保障を中心とする「増税=再分配」による需要不足解消という私の考えている路線を、金融政策の側から実現しようとするものと理解することができる。いままでインフレ政策にはどこか懐疑的だったのだが、論争(というよりも「言いっ放し」なのだが)が盛り上がってくれたおかげで、インフレ推進派が何を言いたいのかが次第につかめるようになってきたし、デフレの解消が喫緊の課題であることも、今まで以上によく理解できるようになった。なかでも自分の頭で一番納得できたのは、ここで批判的に言及することも多いが、やはり飯田泰之氏の説明だったと思う(「潜在成長率と景気対策の余地」http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20091110

 ただし、テクニカルな面で根本的な問題を抱えている可能性については判断できないので、インフレ政策に無条件で賛成というわけではない。それに増税政策と同じで、「物価が上がる」という素朴すぎる世論に、どう抗していくかが課題となる。特に、ますます日本の世論の中心となる年金生活者層にとっては、むしろデフレによって物価が下がって預貯金の実質価値が上がることの恩恵のほうが圧倒的に強く、インフレ政策の中身を知るほど反発が強まる可能性がある。

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所得税よりも消費税のほうがよい、ということについて

所得税中心主義は正しいか

 いまだに日本では、増税そのものが言語道断という雰囲気がまだまだ根強いが、増税による再分配の必要性を理解する人たちの中には、その手段として、所得税の累進率を引き上げればいいという議論もある。立岩真也氏と飯田泰之氏がこの立場である。
 所得税累進率引き上げ論は、まずマスメディアでは消費税だけしか俎上に上っていないような硬直した議論へのカウンターとして、そして富裕層から貧困層への所得再分配にとって最も理にかなった手段として、かなり共感できるところも多い。しかし私は、所得税の累進率を上げるということ自体には全く異論はないものの、所得税中心主義にはどちらかというと批判的で増税の中心は消費税のほうがよいという立場をとっている。ここでは、そのことについて簡単に述べたい。半分くらいは権丈善一氏の受け売りではあるが。

■所得税よりも消費税のほうが現代の社会経済的な構造にマッチしている

 その理由は、この税制が日本国民の中間層の中の上層(つまり銀行員などの大企業正社員層)という、現在では比較的限られた層の所得を当てにしたものであるという点にある。飯田氏は経済上の論理から所得税を評価していて、その限りでは面白いとは思うが、現代日本社会の階層構造を完全に無視している。
 たとえば所得税だと低所得者だけではなく、一時的に滞在している外国人のビジネスマンや旅行者、そして定年退職した年金生活者がその徴収の対象から除外されてしまう。とくに「観光立国」を目指すとしたら(これ自体には否定的だが)、なおさら一時滞在者にも広く課税できるような方法が望ましい。要するに、所得税中心主義は、現役労働者による中間層が人口学的に分厚くて、しかも消費を含む経済活動の主要なアクターが自国民である、という想定ができる場合には適切な方法かもしれないが、それはもはや現在の経済のグローバル化と高齢化社会に対応したものではなくなっている、と考えるのである。
それに対して消費税は、こうした現代の社会経済的な構造に比較的うまくマッチしているものと評価することができる。またよく言われるように、所得税だと節税対策の余地がかなり大きく、この点でも消費税のほうがシンプルで節税の余地が少ない。

逆進的でも実質的に負担が減ればいい

 消費税だと税負担が逆進的になるという理解が広範にある。消費が冷え込んで景気が悪化するという批判も多い。しかし、こうした理解は根本的な点で間違っていると考える。飯田氏はともかく、社会学者で「再分配」の意義をよく理解しているはずの立岩氏も、逆進性を問題にしている点で大きな誤解をしている。
 何度も書いてきたが、増税というのは「負担増」ではなく、所得を再分配することによって社会的負担の偏在を除去し、社会全体の不安とリスク感を軽減するための手段である。だから消費税それ自体は逆進的でも、最終的に実質的な負担の軽減がより可能になるように分配すれば全く問題はないのである。分配する前の徴収の段階で逆進性を過剰に問題にすることは、あまり生産的な議論ではないと考える。
 現在の日本の問題は、正社員という身分が限定的かつ不安定になっているにもかかわらず、それ以外のセーフティネットがあまりに弱すぎるために、「将来不安」がきわめて強いものいなっている点にある。収入の多くを貯金に回し、日々の買い物は1円でも安いものにこだわり、それに乗じた小売業の安値競争が経済全体の停滞を招く、という結果になっている。
 だから最も必要とされることは、少々のことでは生活が破綻することはない、というセーフティネットを構築することである。つまり、一度職を失っても雇用保険と給付付き職業訓練が存在し、子供の教育費に対する公的援助も充実しており、介護保険の個人負担が軽減されてヘルパーの人員も増員される、といったようなセーフティネット政策によって将来不安を解消することは、日々の買い物の値段の1割上昇など消し飛んでしまうくらいの「負担減」であることは明らかだと考えるのである。「成長戦略」というと「成長産業」の優遇措置を指すことが多いが、再分配によって将来への安心感を確保させ、それによって消費の活性化を図ることも成長戦略の一つであり、少なくとも今の日本ではそれが望ましいことは明白であるように思う。

■税制は徴収の効率性が優先されるべき

 私の評価では、立岩氏は税制を倫理的に考えすぎている(その思考の軌跡から教えられることは非常に多いが)。もし「必要としているところに必要なだけ」を実現しようとすれば、分配のための原資が可能な限り確保できるということが優先されるべきであり、だから税制は最も効率的かつ豊富に徴収できる(しかもシンプルな)方法が望ましい。人頭税が現代社会で望ましくないのは非人道的だからではなく、徴収方法としてあまりに非効率的だからである。倫理的視点が要求されるのは、あくまで「ベーシックインカム」か「ワークフェア」かといった、再分配の段階においてであろう。
 立岩氏の『税を直す』で行っているシミュレーションだと7兆円の税収増だというが、これ自体が過大推計の可能性があるだけではなく、現在発行しようとしている赤字国債はその6倍規模であって、とても追いつけるものではない。消費税のシミュレーションについては知らないのが、過去の福田政権時代に31兆円の支出増のために消費税17%が必要だと発表されていたので(http://doughnuts.blog5.fc2.com/blog-entry-1745.html)、これを単純に信じるとすれば1%の増税だけで2.5兆円もの税収をが得られることになり、所得税よりも消費税のほうがはるかに効率的であるように思われる。
 食料品などの軽減措置も、再分配による負担の軽減がしっかりできるのであれば、むしろないほうが好ましいと思う。

■財政再建のための増税であってはならない

 増税というのは「必要なところに必要なだけ」という再分配を手厚くするための手段であり、ある程度の「大きな政府」の必要性を認めるものであるから、本来なら「福祉の充実」を掲げる左派勢力が積極的に提案しなければならない。
 ところが日本では、自民党内の財政再建論者と財界が増税を主張し、左派勢力がこれに全面的に反対するという、非常にねじれた構図になっている。このことは、「増税は財政悪化のしり拭いを自分たちに負わせるものだ」という誤解を国民の間に浸透させ、「その前に無駄はないのか」という拒否反応を強め、ますます増税が困難になるという悪循環に陥っている。与謝野馨は世論に抗して孤独に頑張ってはいたと思うが、財政再建を強調する戦略は全くの逆効果だったと思う。
 私は積極的増税論者だが、この「財政再建のための増税」、言い換えれば「再分配なき増税」政策については、ほぼ全面的に否定している。本来、再分配を重視する民主党政権が批判すべきなのは、この財政再建を自己目的化した増税路線であって、増税策そのものではないはずである。しかし現実は、「無駄の削減」を相も変わらず声高に唱えているように、民主党政権も自民党の誤りを上書きしているように思われる。

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