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政策論について

 哲学者や社会学者による、大上段に構えた社会分析・社会批評が少なくなっている(少なくとも影響力が減退している)一方で、政策について語ることが流行している。ピケティブームに象徴されるように、現在最も真剣に読まれているのは、主流派経済学者の書いたものである。哲学者や社会学者、非主流派経済学者が格差の問題を語ってもあまり読まれなかったのに対して、統計データや具体的な政策論を提示する経済学者の議論は多くの読者を獲得している。

 人々が具体的な社会問題に関心を持ち、データや事実に即した政策を考えるようになったことはよいことである。しかし、正直言ってあまりに粗雑な政策論が目立っているように思う。私も政策論は素人であり、その細かい中身については容易に理解できないが、それでも最近横行している議論はあまりに乱暴という印象を否めない。先日、経済学者二人とタレントの一人が鼎談して「政策提言」をする本を立ち読みしてみたが、あまりの無責任な放談ぶりにその場で投げ捨ててしまった 。ベテランの社会学者の、社会保障強化で経済が成長するという内容の新書を手にとってみたが、意見自体は自分に近いにも関わらず、正直なところ素人の火遊びという印象はぬぐえず、真面目に読み進められなかった。


 大学に籍を置く経済学者や社会学者ですらこうなのだから、ブログやツイッターで繰り広げられている「政策論」に至っては言うまでもない。明らかに政策を語る資格のない人たちが、政策論を語ることに熱心になっている。文系学部削減論に憤る文系研究者は多いが、そうした人自身がかつてのような文系的な研究を地道に行うことをしなくなり、やたらに「エビデンスに基づく政策論」を語りたがるという、笑うに笑えない(まさに文系研究の衰退そのものを象徴する)風景もしばしば見られる。

 政策論を語るには、(1)当該の政策に関連する制度と法律の(その成立の目的や歴史的経緯を含めた)知識、(2)政策遂行のためにかかる財源の調達の目途、(3)有権者の支持/不支持を含めた政治的な実現の可能性と不可能性、(4)当該政策の倫理的な観点からみた適切性のそれぞれについての、丁寧な理解や見通しが絶対に不可欠である。


 例えば、近年の「ベーシックインカム」の「政策提言」について言えば、およそ政策論の名に値するものではない。それは、(1)日本で分厚い蓄積のある社会保障制度研究や近年の制度改革について言及すらない、(2)代替財源として国民年金や生活保護制度の解体という政治的な目途が極めて困難な方法を主張している、(3)BIを掲げる政党は皆無であり、それ以上に世論の猛反発は必死である、(4)関心が市場の効率性のみで貧困者の社会参加や尊厳の回復という問題には完全に無関心、等々の理由による。そもそもBI論は、再分配についての「原論」として読まれるべきものであり(実際最初期に日本にBI論を紹介した人は政策的BI論者ではなかった)、安易に政策論に落とし込むべきではない。

 さすがにBI論の支持者はそれほど多くなく、支持者の質もあまりよくない傾向があるので、無視してもよいかもしれない。そこで、比較的良識的と思われる人からも支持されているが、ダメな政策論の典型的なものとして、消費増税反対論を取り上げてみよう。例えば反対論者は、「社会保障を人質に消費増税を迫るな」「社会保障は社会保障財源に相応しくない」などという。そもそも認識として根本的に間違っているのだが、百歩譲ってそれを認めるとしても、現行の社会保障財政のスキームの根本に変更を迫るものである。それは金融政策とは異なり、首相や日銀総裁の鶴の一声で容易に変更可能なものではない。そうした政治的な困難さについて全く何も触れず、何の代替財源の見通しも提示しないまま、そのような耳障りのよい主張を繰り返すのはあまりに無責任であり、そもそも政策の現場は採用のしようがないだろう。

  「社会保障を人質に消費増税を迫るな」と財務省を批判したところで、恒久的な社会保障財源は安定的な財源を根拠に、という(それ自体は誤りとは言えないであろう)原則が大きく変更される見通しは、どこにも語られていない(要はそもそも関心がない)。結果として、前回の消費増税回避に象徴されるように、財務省はこれを好機とばかりに社会保障費の大幅な刈り込みにかかっており、とくに増税回避の煽りで介護報酬を大幅に減額された介護事業の現場は、崩壊の危機というよりも既に崩壊しつつある(当然だが公的資金に支えられている介護事業の倒産は普通の民間企業の倒産とは意味が異なる)。こうした帰結にまで責任をもった議論をして、はじめて「政策論」と呼ぶことができる。見たところ、反対論にはそうした誠実な政策論はほとんど見られない。


 反増税派は、体裁は「しっかりとしたデータに基づく政策論」のように見えるが、本当に事実やデータを重視しているかどうか、実際のところ相当に微妙である。当たり前だが、1997年の日本を含めて、消費増税が主要因で深刻な不況に陥った、ということが明々白々な事例は、世界中のどこの国を探しても存在しない。それはあくまで、一握りの経済学者の経済学的な仮説に過ぎない。消費の落ち込みは、雇用の流動化と労組の弱体化による給与水準の停滞、少子高齢化、社会保障費の抑制による先行き不安、不適切な規制緩和策による過当競争など、より重要で深刻と思われる理由はいくらでもあるが、反増税派はそうした他の様々な可能性を真剣に検討しようとしない。そして、「消費増税の前に歳出の無駄を徹底的に削減する」という理由で財政の緊縮化が推し進められてきた、それこそ歴代総理の発言(特に小泉元首相と鳩山元首相)から因果関係がかなり明白な事実についても、全く取り上げられない(そもそも、彼らは「反緊縮」を自認しているものの、実際のところ消費増税以外の緊縮策の阻止にはほとんど熱心ではない)。

 また、「社会保障目的の消費増税は世界に例がない」というデマがあちこちで垂れ流されているが、当然ながら1970年代以降にEU諸国が消費税の増税を採用していったのは、完全雇用の実現困難による、社会保険方式と所得税依存の社会保障財政が限界に来た、その安定的な代替財源としてである。政策担当者に消費増税の目的を聞けば、「もちろん社会保障目的です」と普通に答えるに違いない。もちろん、厳格に法律で紐付けてないという極めて狭い意味では目的税ではないが、増税の政治的な正当化言説として社会保障目的だとアピールするのは(「目的」とはそういう意味である)、日本も諸外国も全く同じである。税と社会保障に関するデマや誤解と思われるものは枚挙に暇がないが、残念ながら訂正する人は全く出てこない。言うまでもなく、「社会保障目的の消費増税は世界に例がない」と述べる人は、学会と政策の現場で長年の風雪に耐えてきた、税と社会保障に関する分厚い実証研究については、一行も参照していない。

 そして2014年4月の3%増税から2年近くになるが、少なくとも反増税派が力説したほどの深刻な景気の落ち込みは招いていない。97年との比較でいえば、景気は消費増税などよりも金融・財政政策(97年はかなり強い引き締め)や世界経済の動向の影響(97年はアジア金融危機)の方がはるかに大きく受ける、と解釈するほうが常識的だろう。ところが、それを反省するどころか、「増税さえなければアベノミクスはもっと成功した」などという、欺瞞に満ちた言い訳ばかりが語られており、それを批判する声もきわめて小さい。要するに「事実とデータに基づく政策論」と言っても、声が大きい人たちが提示する「事実」「データ」が一方的に参照されているに過ぎない。

 そして税と再分配・社会保障の問題は「民主主義」の問題でもある。民主主義である以上、当然ながら様々な利害や問題関心、価値観を持った有権者を巻き込むものである。専門家が自分の専門に対する狭い関心だけで押し通すことはできないし、またそうすべきでもない。先般の軽減税率の問題に対して、反対派は「経済学者で賛成している人はない」という、極めて硬直した独りよがりの議論に終始し、世論に全く届く気配がなかったことなどはその典型である。そこでは、別の専門家による批判だけではなく、イデオロギー的な反対者も、「主婦目線」による不満も、「既得権者」による抵抗も、全て民主主義の重要な構成要素であることが、全く理解されていない。

 その意味で、政策論には民主的な議論の盛り上がりを通じた調整と妥協が不可欠であるが、これが今の日本では全くと言ってよいほど存在していない。もちろん、民主的な議論が必要だと言えば誰も否定はしないだろうか、実際のところは「自分たちの真っ当で正しい意見だけで政策をつくるべきだ」という雰囲気が明らかに強くなっている。これは安倍政権は言うまでもないが、特に若手のリベラルな良識派の人たちにも広く蔓延しているように感じる。

 当然ながら、政策を実現するためには、法的根拠を有する社会制度の改変と、政策遂行のための財源を調達することが必要である。そのためには、現行の制度がどのように運営されているのかの細部の知識と、財源調達のための具体的な政治過程についての丁寧な理解が必須である。当たり前だが、それは「現行制度では難しい」「財源が厳しい」という、官僚の声に従うべきといっているのではなく、そうした知識や理解なしに、官僚の声に効果的に抵抗できるわけがないのである。

 政策論を語ると、束の間とはいえ何か社会に貢献した気分にはなる。しかし所詮は気分に過ぎないので、次の瞬間にはまた疎外感や無力感に襲われることになる。また政策論は、現在必要とされていることをとりあえず自明視して議論を進めるので、下手すると人々の視野を狭くしてしまうという負の副作用もある。例えば消費増税派の人は「健全財政のために人間が存在しているのではない」ことを反省しないし、反増税派の人は「経済成長のために人間が生きているのではない」ことを全く反省しようとしない。そして反省を求めると、途端に「トンデモ」と決め付けてコミュニケーションを遮断する。哲学者や社会学者の社会批評に人気があった頃の方が、もう少し「聴く耳」というものがあったように思う。

 
 当たり前だが、その分野に精通している専門家であるほど、政策を語ることには慎重である。税や社会保障のような、制度自体が複雑だけではなく、多様な利害や価値関心もが複雑に絡み合っている問題については、特にそうならざるを得ない。一見裁量の大きな中央銀行総裁にしても、その発言一つでグローバルな規模の株式市場の乱高下を引き起こす可能性がある以上、自らの政策論を矛に収めざるを得ない場面が多々ある。政策の現場から遠いところで語られる、中途半端で偏った知識や問題関心に基づく無責任な「政策論」は、実際に政策の現場で汗をかいている人間からすれば、全く役に立たない上に害悪ですらある。

 民主主義的な社会とは、政権のブレーンにでもなったつもりで「政策提言」を語る人が多くなる社会では断じてなく、自らの主義主張や利害関心を政治に反映させるために、人々が議論、妥協、調整、協力を不断に行う社会のことを意味する。政府の労働政策にネット上であれこれと難癖をつけて論じながら、職場では上司のパワハラに黙って耐えるだけ、ストライキを起こす手段も方法もわからない、という社会がおよそ健全であるわけがない。まずは身近に抱えている問題を解決するために何が必要なのかを考え行動し、人々を巻き込んで組織化していくこと、それが本当の意味で「政治」に関わることであるという、そうした原点に立ち戻ることが必要である。

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