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論争の衰退

 最近、論争というものを目にすることが非常に少なくなった。1990年代に、「憲法改正」や「従軍慰安婦」や「歴史認識」をめぐって激しい論争があった。当時は当時でまともな論争の不在を嘆いたものだが、今から振り返ると、お互いに論敵が何を言っているのかは最低限アンテナを張り、それに応答する形で議論が行われていたように思う。少なくとも右派も、『朝日新聞』や左翼学者の論説を真正面から取り上げて、それを批判する形で議論を展開していた。

 しかし、現在はそうした批判すら全く見られなくなっている。脱原発、消費税増税、ヘイトスピーチ、集団的自衛権、脱成長論などをめぐって、日本の国民の間でかなり鋭い意見の対立があるが、意見を述べる人たちの文章の中に、論敵の議論がまともに取り上げられることはきわめて少ない。また取り上げられるにしても、かなり質の悪い議論ばかりがターゲットになったり、あるいは論敵の言葉尻を捉えて、それを「本音」だ決めつけて糾弾して叩いたりするような議論が多い。

 個人的に関心の強い税と社会保障の問題について言えば、増税反対派は「増税すれば日本経済が崩壊する」と言い、賛成派は「財政健全化への安心から増税すれば経済が好転する」などと、極端で怪しげな議論が横行している。論敵からすれば当然苦笑いするしかないような、こうした乱暴な議論が修正されないまま横行しているのは、彼らが反対者を説得するための言葉や論理を探求していくよりも前に、仲間うちで共感される言葉遣いが優先されてしまうためであろう。

 他にもヘイトスピーチでは規制派と慎重派、脱原発では再稼働容認派と否定派など、両者がじっくり議論を交わしているという記事やテレビ番組を、一度も目にしたことがない。安保法制をめぐっても、反対派は「戦争法案」だと言い、そして推進派は「積極的平和主義」という、それぞれ独りよがりの解釈で、およそ議論がかみ合う気配すらない(もちろん責任の圧倒的大部分は権力を握っている安倍政権側にある)。

 脱成長論に対しても、「高度成長を享受した年長世代が逃げ切ろうとしている」という定型化された批判がある。そういう側面が皆無というつもりはないが、やはり単に論者の世代的属性だけを取り上げた、根拠のない言いがかりやレッテル貼りにすぎない。しかし日本を代表する大学に所属する経済学者や社会学者で、不断は実証的根拠を厳しく問うている人たちですら、こうした批判を口走ることが往々にしてある。

 主張の場がいくつかの論壇誌に限られていたかつてであれば、意見の異なる相手の議論を全く無視することは難しく、自分の意見を人に聞いてもらうためには、肌に合わない主張にも目を通して、それなりの応答をせざるを得なかった。しかし2000年代以降、インターネットの掲示板や、特にSNSによるコミュニケーションの普及によって、意見の同じ者どうしで延々と「つるむ」ことが可能になってしまった。それによって、『朝日新聞』「在日」「サヨク」から「日銀」「財務省」に至るまで、具体的な相手の主張を読もうとも知ろうともせずに、一方的に攻撃する議論が横行するようになった。

 これは2ちゃんねるやツイッターのようないかにもな場所だけではなく、例えばネットメディアでは目下最も質が高いと思われる「シノドス」にも(言葉遣いがソフトで洗練されてはいるが)感じられる傾向である。「シノドス」のイデオロギー的立ち居地はきわめて明確なのにも関わらず(リベラル、リフレ政策全面支持、成長必要論など)、ある議論が批判の俎上に上る場合は、やはり無知や不勉強というスタンスから批判されているし、社会保障論や労働法学などの専門領域については、おそらく増税支持者や成長主義批判者が多いという理由からか、完全に黙殺を決め込んでいる。

 論争が停滞しているというだけではなく、非常に厄介な事態は、そもそも良識派の人たちが、論争を無意味で不毛なものと考えている傾向も見られることである。それはおそらく、論争というものを、相手を言い負かすとか、論破するとか、あるいは聴衆を味方に付けるとか、そう勘違いしているからだろう。そもそも、数時間程度の議論で相手が説得されるわけがないのである。そういうことがあるとしたら、それは相手がよほど無知の素人でなければ、教師と生徒のような権力関係があらかじめ存在している場合だけだろう。

 こうした論争に関する誤解は、多分に『朝まで生テレビ』のような、テレビ討論番組の弊害によるところも大きい。知識も問題関心も共有できていない十数人の人たちが、人の話もろくに聞かず、延々と自説をまくしたて、人に対して白か黒かの態度表明を迫る。選挙前の討論番組に至っては、泡沫政党を含めた各政党が早口で数分間の演説をしているだけに過ぎない。こうした実質的な討論を全くしない「討論番組」が、かつての民主党政権のような、財源の裏付けを欠いた実現不可能な「マニフェスト」を修正させる役割を果たすことができず、結果として深刻な政局の混乱を招いてしまったことは記憶に新しい。

  こう述べている自分も、議論などまったく出来ていない。自分は社会保障制度を維持していく観点から消費増税への乱暴な批判には同調していないが、反増税派の人たちの懸念もよく理解しているつもりである。しかし反増税派の人たちとは、まるで宇宙人と会話をしているかのように話が合わない。反増税派に同調できないのは、彼ら反対派の議論を間違っていると考えているからでは必ずしもなく、自分の問題関心に全く応えようとしていないからなのだが、それを伝えても全く理解されない。何かと言えばグルーグマンを読め、スティグリッツを読めと返されるのだが、こうした(自分もその気になればいくらでもできるような)批判は、意見が異なる相手を専門分野や価値観が異なる相手としてではなく、単なる無知や不勉強であるとしか理解できない、という事態を象徴している。

 この5年ほど池上彰氏の影響力が大きくなっているが、氏の番組が少し危険だなと思うのは、こうした「政治的に中立的な立場からの解説」は、例えばそこに中国や韓国に対する偏見が紛れ込まれた場合に、全く反省できなくなってしまうことである。中立的に物事を観察しているつもりの人、イデオロギーから自由であるかのように思い込んでいる人ほど、極端な議論にはまりやすい。それは、イデオロギーの極致のように見える在特会も、イデオロギー的な色付けを嫌い、「日本人として当たり前のこと」を強調していることからも理解できることである。

 多様な意見への許容度が低くなっているのは、決して安倍政権のみに特徴的なことではなく、リベラル派を含めて全般的に感じることである。どのように「論争」の場を健全な形で復権させるのか、という問題意識そのものがもう少し盛り上がっていくことを望みたい。

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