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2014年12月

「アベノミクス選挙」後の課題

 先の総選挙で安倍自民党は文字通りの「圧勝」を収めた。この結果は何を象徴しているのだろうか。国民は一体この選挙で何を「選択」したのだろうか。

 一つには、与野党間(あるいは党内の)の政策論争が華やかに繰り広げられる政治よりも、安定政権による手堅い(と思われている)政治運営の選択である。これは端的に55年体制の長期安定政権への回帰志向と言ってよく、決して「保守」や「右派」の政治的価値観が勝利したのではないことは、個々の安倍政権の右派的な政策に対する批判的な世論調査結果からも、また今回の選挙における「次世代の党」の惨敗を見ても明らかである。

 もう一つは、「アベノミクスの是非」が争点となったように、中長期的な社会保障の強化よりも短期的な「景気」の問題を選択したことである。安倍首相は消費増税を先送りしたが、それは既に報道されている通り、(1)低所得高齢者給付金、(2)年金最低加入期間の短縮、(3)低所得者の介護保険料の軽減、(4)介護士や保育士の待遇改善等々、消費税を財源とした社会保障強化策を取りやめる、あるいは先送りすることを決断したという意味でもある(くらし☆解説 「消費増税延期 社会保障はどうなる?」http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/204120.html)。

 もちろん、増税による社会保障強化は大規模なものではなく、全体としては負担増や削減という批判を受けやすいものではあるが、少なくとも社会保障費のラディカルな抑制を引き起こす蓋然性の高い消費増税の先送りよりは、前向きな方向であることは間違いない。しかしこうした方向性は、自民党内からも野党からも全く打ち出されることはなく、むしろ「景気重視」の姿勢を全面的に押し出す道を選択し、またそれが有権者に支持される形となった。こうした、まず景気や経済成長があってこその福祉と言う考え方も、過去の自民党政権への回帰志向と言ってよいだろう。

 しかし以上の二つの「選択」には、明らかな限界がある。一つには、今の自民党にはかつてのような農村部や商店街のような安定した分厚い支持基盤はなく、潜在的には年金生活者を中心とする浮動票依存であることである。今の安倍政権の表面的な安定性は、景気後退や党内の派閥抗争で一挙に崩れ去るもろさを抱え込んでいる。かつては、自民党内の政策上の対立や政争は盛んに報道されていたが、今は懸命に押さえ込まれて全くニュースにならないように、もはや今の自民党は党内の意思不統一を鷹揚に許容できるほどの強さはなくなっている。

  もう一つの限界は、景気や経済成長は依然重要な課題であるとして、脱工業化・少子高齢化した今の日本では、バブル期以前の経済成長の復活などは、もはやあり得るものではないことである。先進諸国の成長率はせいぜい3%が限界であり、大部分の国民にとっては「言われてみないとわからない」レベルである。だから現実に安倍政権が直面しているように、たとえ景気浮揚や成長を実現し、それを世論にアピールしたとしても、必然的に「実感がない」という反発の声も盛り上がり、完全に逆効果になってしまうことになる。

 以上の限界に対する課題はどのようなものになるだろうか。まず前者に対しては、「政権担当能力の有無」という政策以前の問題が選挙の争点になってしまい、有権者にとって事実上選択肢がなくなる、というこうした状況を変えていくことが必要になる。そのためには、安倍政権の政策論に対する批判的な世論を、いかに草の根で組織化していくかということが課題になる。反貧困の運動や脱原発運動、ヘイトスピーチに対する「カウンター」の運動など、個々には必ずしも全面的に賛同できかねるものもあるが、2000年代後半以降に叢生した、これらの様々な左派的な社会運動を大事に育てて、民主主義の制度(特に政党制度)の中に組み込んでいくことが必要になる。

 後者に対しては、短期的な景気の動向に国民生活が過度に依存しない社会をどう構築するか、ということが課題になる。景気浮揚や経済成長はマクロな社会の再生産のために追求されるべき政治課題であり続けるとして、今の日本のように個々の国民が短期的な景気の動向を過度に心配して、増税延期による社会保障費の抑制や削減を甘受させられているような社会は、それ自体において歪んだものと言うべきであろう。

 事実、欧州の付加価値税は(早期に導入していたフランスを例外として)欧州全体が高い失業率と財政赤字に苦しんだ1970年代後半から80年代にかけて、急激に上昇してきたものである。こうした、短期的な景気悪化を甘受しながら(ただ当時はデフレではなくスタグフレーションであったことは考慮される必要がある)社会保障財政の強化を図ってきた欧州諸国の選択は、結果的に現在に至る「大きな政府」と「福祉国家」の社会を支えてきた、と評価することも可能である。

 目指すところは難しいことではなく、国民全員が政治に参加した、様々な可能性の中から主体的に選択を行った、と実感できるような民主的な社会をつくることである。今回の、参加や選択の余地ない「アベノミクス選挙」は、そうした当たり前の課題をあらためて浮き彫りにしたと言えるだろう。

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イデオロギーの復権

 近年アカデミズムでもネット論壇でも、「実証に基づく議論」が主流になっており、旧来のような価値や「イデオロギー」に基づく議論はすっかり影を潜めている。1980年代や1990年代には哲学者や社会学者の社会批評が隆盛したが、現在は実証性に乏しいとしてかつてほどの読者を獲得できなくなっている。では実証に基づく社会分析や政策論が増えたことで、議論の質が向上しているのかと言うと、必ずしもそうとは言えない現状がある。むしろ、意見の異なる者同士の論争がますます成立しなくなっているという、より深刻な事態をもたらしているように見える。

 「イデオロギー」の時代は、議論の質はともかくとして、少なくとも対立や闘争という形の「対話」が最低限成立していた。昔の保守派は批判するためにもマルクス主義の文献や左翼知識人の論文に目を通していたし、全共闘の学生はつるし上げの対象である大学教師の本をよく読んでいた。佐高信と西部邁が対談本を何冊も出しているように、「イデオロギーの時代」を生きた世代の知識人には、意見が異なるからこそ対話が必要だという感覚はまだ残っている。

 しかし最近流行の「実証に基づく議論」は、そういうレベルの対話すら起こらない。自分と意見の異なる人間が、価値やイデオロギーが異なるのではなく、「事実」「データ」を知らない、あるいは知っていても理解できない人間として位置づけられているからである。それゆえに、偏った「事実」「データ」とその解釈を共有する仲間内の共感や、「こうした事実をなぜ他の人たちは無視しているのか」という少数派意識のルサンチマンが蔓延する結果になっている。ネット上のジャーゴンでは、批判者を「デンパ」「トンデモ」呼ばわりすることが横行している。

 こうした議論の最たる存在が「在特会」であろう。在特会の指導者や関係者が出版している本には、実のところ彼らが街頭で呼号しているような扇動的な差別表現はほとんどなく、むしろ一見したところ「事実」が淡々と記されているかのような記述が続く。そして、そうした「事実」が「国民に知らされていない」ことへの「義憤」を表現する、という体裁を取っている。

 かつての『嫌韓流』も、韓国の(かなり戯画化された)民族主義者を「実証的に論破する」という体裁をとるものであった。ヘイトスピーチの根っ子が素朴な差別感情に過ぎないのであれば、「差別はよくない」とストレート言い返すことも可能である。しかし彼らが厄介なのは、「なぜ『事実』『真実』を見ようとしないのか」と迫ってくることにある。差別扇動をやめろと訴えても、なぜお前たちは「真実」を見ようとしないのか、はやく目を覚ませ、とまくし立てられてしまう。

 在特会は極端だが、脱原発問題や経済・財政などの問題でも、その内容の当否はともかくとして、「真実」「事実」を直視したがらないという批判で、意見の異なる者の議論をそもそも聞こうとも読もうともしない、という態度が広く蔓延している。在特会がアカデミズムにおける在日研究を一行も参照しないまま在日をバッシングしているように、消費増税を財務省陰謀論で攻撃的に批判する経済学者の文章には、財政学や社会保障論で蓄積されてきた実証研究は全く登場しない。

 そもそも消費増税の問題などは、財政健全化に関心を持つ者、社会保障財政の強化と充実を目指す者、景気に対する悪影響を懸念する者という、それぞれの問題関心を抱えた者同士が徹底的に議論し合い、妥協・調整すべき問題である。それにも関わらず、そうした論争の場はほとんど成立しないため、結局一部の専門家の主導とその時々の政治の力関係で政策が決まり、大多数の人にとって疎外感と不満感が残り、政治不信を醸成するという結果になっている。

 本来「事実」は意見の異なる者同士が対話するための、共有財になり得るはずのものであり、またなるべきものである。しかし現在、むしろ「実証的な議論」への強い志向性それ自体が、論争の成立を妨げて一方通行の(しかし「なぜ理解されないのか」というルサンチマンばかりは強い)議論を大量に生み出している。

 断わるまでもないが、実証的な議論の重要性は、強調してもし過ぎることはない。問題は、本来価値やイデオロギーの水準で議論すべきことまで、無理に「実証的に論破」しようとしている傾向が強まっていることにある。例えば「従軍慰安婦の強制連行」問題がそうだが、本来これは戦争責任や女性の人権、ナショナル・ヒストリーなどはどうあるべきか、という次元で争うべき問題のはずである。それが、瑣末な実証の水準で相手を「論破」しさえすれば、相手の価値やイデオロギーまで覆すことができるという、倒錯した論理が横行している。

 消費増税の問題もそうである。景気後退のリスクを背負ってでも社会保障制度を支えるのか、それとも社会保障費の削減を甘受してでも目の前の景気を優先するのか、そもそも社会保障制度にとって消費税は公平な税制なのかどうか、といった「価値」の問題については全く議論がなされないまま、「消費増税と景気の関係」というレベルの問題ばかりに関心が集中している。そのため、「自分は実証的に確かなことを言っているのに理解できない人がいる」という、批判者の知性を劣等視するような愚痴っぽい議論ばかりが目に付く。実際、現在の「アベノミクスの是非」を争点とした今回の選挙では、こうした類の議論が広く蔓延し、健全な政策論争などほとんど期待できない結果になっている。

 価値やイデオロギーは人を狂信的にする危うさを孕んでいないわけではないが、自らの主義主張を言語化し、その偏りや特殊性への反省を可能にするための役割を果たすこともあることも確かである。政策を語るに当たって実証性が重要であることは言うまでもないが、それと同時に、価値やイデオロギーをどう政治的に組織化していくかも、これからの課題とならなければならないと考える。

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