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2010年8月

ナショナリズムと福祉国家

ナショナリズムと福祉国家の関係

 「福祉国家」や社会保障の問題を学んでいる人は、それがしばしばナショナリズムと結びつくという問題に直面する。古いところでは、スウェーデンの経済学者であるグンナー・ミュルダールが提起した、「福祉国家の国民主義的限界」問題が有名である。ナショナリズムと福祉国家の関係は、一般的に言うと、以下の二点にまとめることができる。

 第1には、国家が再分配活動を行うためには、社会サービスの給付の権利を有する成員資格を、明確に定義しておく必要がある。たとえば企業の場合、株式を購入する権利は原理上万人に開かれており、成員資格を事前に定義しておく必要は基本的にないが、国家は保険証や年金手帳を給付する範囲をあらかじめ決定しておかなければならず、その際の定義の根拠として「民族」が持ち出されることになる。

 第2に、税や社会保険の負担を国民全員が等しく共有するための、連帯と共同性の基盤としてである。たとえば、富裕層が低所得者への再分配に応じるとしたら、それは「同じ国の一員だから」という以上の合理的な理由で説明するのは難しい。統治者の側がそうした理由を押し付けることもあるし、世論が「おなじ国民なのに」という理由で、税や社会保険を「平等に負担」するように圧力をかけることもある。

 ちなみに、第1の点に付け加えると、社会保険のような間接的な再分配よりも、「ベーシックインカム」のような直接的な再分配ほどナショナリスト的にならざるを得ない。それは、社会保険の場合は給付資格要件として保険料負担の実績が第一に考慮されるが、「ベーシックインカム」の場合は、否応なくメンバーシップに一元化されてしまうからである。これは濱口桂一郎氏が「ベーシックインカム」批判で提起した論点である(それが「危険」であるかどうかについては判断を保留しておく)。

現在においても果たして自明なのか

 ナショナリズムと福祉国家の関係は、『ベヴァリッジ報告』に象徴されるように、また日本の国民健康保険が戦時中の人口増産政策と連動して成立・普及したように、総力戦体制の中で最も強力に表現されたものである。とくに1970年代以降の哲学や社会学では、フーコーの「生権力」概念などに依拠する形で、「福祉」の名の下による国家による生の強制や画一化といった問題が批判的に語られるようなった。福祉国家が成立する段階において、「民族」「人種」の観念に基づく優生思想や隔離政策が大きな役割を果たしていたことは今更説明するまでもない。

 しかし、上述のようなナショナリズムと福祉国家の積極的な関係は、現在においても果たして自明なのだろうか。もちろんナショナリズムを広く解釈すれば、「人口」をターゲットとする少子化対策は、その中身が何であろうと戦時中の「産めよ殖やせよ」政策と同一線上にある、ということになるだろう。ただ、そうした広い解釈をとりはじめると、おそらくナショナリズムと無関係な社会保障政策は一つもなく、ひいては近代社会そのものがナショナリズムに汚染されているという結論にならざるを得ない(そういう議論が流行った時期もあったが)。

あえて否定的な関係として理解する

 では「ナショナリズム」を、より一般的に用いられているように、「外国人」に対する嫌悪感や競争意識に基づく攻撃・排除という意味に限定すればどうであろうか。それは「場合による」としか言いようがないが、ここでは両者の密接な関係を強調してきた従来の左派系の学者の議論に対する批判の意味も込めて、あえて否定的な関係として理解しておきたい。その理由は以下の通りである。

 第1に、日本を含めて現在の先進諸国の社会保障制度は、既にナショナリティは社会サービスの受給資格要件として機能していない。多くの国では、ナショナリティと市民権との結びつきは、もはや選挙権(特に国政選挙権)の他には、オリンピックやW杯のナショナル・チームの参加資格といったものに限定されるようになっている。だから現在、社会保障の充実を政策課題として掲げる場合、それは必然的に外国人の社会的な統合・包摂を志向するものになる。事実、EU諸国が必要以上に社会保障が充実しているように見えるのは、民族問題という歴史的な背景を抜きには語れないであろう。

 第2に、世界各国で社会保障制度が整備されるようになれば、国境を超えた人の移動、特に従来のような富裕層や最貧困層以外の労働移動が促進される可能性が高い。とくに、北欧モデルのように社会保障制度の出発点に「教育」があるとすると、教育水準の向上は外国語の習得可能性を高め、結果として外国への労働移動のチャンスを増やすことになるはずである。福祉国家と「グローバル化」とは、相反するというよりも親和性が高いと理解すべきである。

 第3に、社会保障制度の維持・強化を目指す過程でナショナリズムが語られているのか、それともあくまで福祉が、ナショナリズムが発露する(主要な)「舞台」の一つになっているに過ぎないのかは、慎重に区別して論じる必要がある。私の評価では、いわゆる「福祉ナショナリズム」というのは、基本的に後者のケースが大多数だと考えている。つまり、社会保障への利害関心から外国人へ反感が派生したというよりも、もともと外国人への反感を抱いていた人たちが、たとえば社会保障財政の逼迫が政治的な話題になった時に、「移民が国の福祉にただ乗りしている」という攻撃を繰り広げていると理解したほうがよい。「福祉ナショナリズム」の多くは、政治的な志向性としては概ね反福祉的である。そもそもミュルダールの「国民主義的限界」も、「ナショナリズム」というよりも「内向き志向」ぐらいの意味に理解すべきものである。

 最後に、特に現在の日本におけるナショナリズムでは、社会保障の問題はほとんど無関心である。おそらく、北一輝や戦時中の厚生官僚の言説にまで遡らないと、両者の密接な関係は見えてこないだろう。可能性としては岸信介だが、そもそも彼は「反共」であったかもしれないが、狭義のナショナリストと言えるかどうかは微妙である。

反省しなければいけない問題

 福祉とナショナリズムの組み合わせは意外性を喚起するので、両者の密接な結びつきを強調したがる人は(特に人文系の知識人に)少なくない。実のところ、自分もそれに少なからず影響されていたのだが、しかし今振り返ると、個人的にはその不毛さのほうが目立っているように思う。また福祉国家の限界を語る、それ自体は真摯な問題意識に基づく議論が、「多様な生の自己決定」の名のもとに、福祉給付削減の論理と図らずも共振してしまったことも、反省しなければいけない問題である。ミュルダールの「国民主義的限界」を超えた「福祉世界」への展望も馬鹿にできないとは思うのだが、今のところは、生活・生存の保障がナショナリズムの攻撃的・排他的側面を緩和する可能性がある(実際緩和に成功してきた)ということを言えれば十分であると考える。

追記:

 コッソリ書いたつもりが、濱口先生に大々的に取り上げていただくはめに・・・・。恐縮で脂汗が。

 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-aa63.html

 グウの音も出ない感じですが・・・。とくに第3の論点ですが、確かに「福祉ショービニズムをあおっている政治家やイデオローグ」だけを念頭に置いていて、つい世論の問題を抜かしてしまいました。世論については全くおっしゃる通りで、確かに世論にとってナショナリズムは後からくっついていくものです(日本では多分公務員たたきになっているんでしょうが)。これはまた、機会を改めて考え直したいと思います。

 上の文章で問いたかったのは、要するに現代社会で「福祉国家」形成を促進すると、(狭義の)「ナショナリズム」が激化するかのか否かという問題で、それが否定的であるということを「あえて」指摘したかったということです。というのも、福祉国家とナショナリズムの関係が問題にされるときに、「福祉国家の原罪」(「それを意識していないと暴力に容易に転化するぞ」)みたいな語られた方が多くて、それに多分に影響もされているんですが、なんかそういうものにややウンザリしているところもあって、それとは違う話を思いつきで書いたわけですが・・・・・・。

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