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2009年12月

市場競争下の「引き下げデモクラシー」 

 濱口桂一郎氏のブログでharuto氏という人がコメント欄に興味深いことを書いていた。

「引き下げデモクラシー」を現在主に提唱している、戦争を待望する元コンビニバイト、放送局勤務を経て現在大学院教授、メーカー勤務を経て人事コンサルタント、といった「男性」に共通するのは、「正社員経験がありその後何らかの理由により退職した」という「事実」ですね。その詳細をケーススタディとして分析することはアクティベーションを考えるうえでも必要ではないかと思います。

思うにこの「男性」たちは「自分と自分が所属していた組織とのあいだの軋轢、確執」を「自己対象化」しながら考えることができていない。「個人的な怨恨」と「社会的な問題」の区別がついてない。なので、「引き下げ」が自己目的化する。

こうした「男性」たちの存在が逆に、労働組合による労使間の関係調整の必要性を照射しているとも言えますね。この「男性」たちはみんな「雇用の流動化のためには労働組合は不要」だと考えているわけですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-4601.html

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 「引き下げデモクラシー」というのは、一言で言うと、旧来の「日本型福祉」を享受できている層がますます縮小している傾向にあるにも関わらず、「日本型福祉」を前提とした社会の仕組みや人々の意識が強固に残っているために起こっている、と理解することができる。

 だから、「引き下げデモクラシー」にはまりやすいのは、自分も「日本型福祉」を享受できるはずだったのにできなかった、あるいは期待ほどではなかったという不満や失望感を潜在的に抱えている人たちである。

 これは若い世代の非正規雇用層だけではなく、高齢の年金生活者層も含まれると考える必要がある。というのは、年金生活者層は社会保障制度の将来に不安を感じずにはいられないような報道を日々耳にしているだけではなく、息子や娘が自分たちの世代のように順調に就職・結婚することなく、不安定で見通しの立たない生活を送っていることが多いためである。むしろ、「こんなはずではなかったのに」という想いは、「黄金時代」をリアルタイムで知っているこの世代のほうにこそ強いかもしれない。

 この「引き下げデモクラシー」 は、しばしば億単位の年収を稼いでいる経済人の規制緩和論と共振しあうことがある。これは不思議なことでもなんでもなく、戦前・戦時の「引き下げデモクラシー」が軍隊の平等性をベースにしていたのに対して、現在の「引き下げデモクラシー」 は市場における競争とリスクの平等性をベースにしているためである。

 つまり、前者では「引き下げ」の対象が、町内会の防火訓練への参加を渋るような特権的な富裕層であったのに対して、後者では解雇や賃下げのリスクもない(と少なくとも思われている)安定した正規の社員・職員に地位に収まっている旧中間層(特に公務員)に向けられている。逆に言うと、経済的な強者である企業経営者に非難の目がさほど強く向けられないのは、彼らが市場競争の「最前線で戦っている」ためである。だからこの結果として、「引き下げデモクラシー」 を求めて経済格差がかえって強まる、という皮肉な現象が起こっているわけである。

 小泉・安部政権時代の「構造改革」を依然として高く評価する規制緩和論者は、民主党の分配政策などを「社会主義的」だと非難することがある。しかし、私に言わせれば、彼らが公務員や正社員層の「既得権」を批判するときの口調にこそ、「社会主義的」なものを強く感じる。彼らがどこまで意図しているかはともかく、それは事実として、明らかに「引き下げデモクラシー」 に加担しているのである。

 税収の2倍以上の予算を組む民主党政権に対して、「税収に見合った政策を立てるべきだ」と批判している経済学者の主張を新聞で読んだ。専門家としてはそのように言うしかないのだろうが、これは悪くすると厳しい財政のもとで国民は文句も言わず我慢するべきだという、「引き下げデモクラシー」 を推し進めるものでしかなくなる。むしろ、民主党政権の経済政策を批判すること自体は必要であるにしても、税制改革や経済政策などによって税収を増やすことはいくらでも可能である、という前向きな議論を構築していくことを専門家には期待したい。

参考: 現代日本の引き下げデモクラシー http://maishuhyouron.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-85a6.html

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ベーシック・インカム的な福祉国家の可能性

 この1年の間に、「ベーシック・インカム」の議論が急速に盛んになっている。ここでも何度か言及したが、まだまだ一般的な認知は低いものの、明らかに一つの議論として市民権を得はじめている。

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 私も流行に流されて色んな本を手にとってみたが、個人的な立場はどちらかというと否定的な方向にある。まず既存のベーシック・インカム論を簡単にまとめた上で、それに否定的な理由について論じておきたい。

■三つのベーシック・インカム

 ベーシック・インカムの手法としては、具体的には以下の三つがある。

(1)完全ベーシック・インカム: 属性や所得の壁を完全に取り払い、国民全員に一律に同等の金銭給付を行うもの。この立場は、ベーシック・インカムを純粋に政治哲学として議論している人に多い。

(2)負の所得税: 所得税の累進課税を強化した上で、課税最低限を下回る所得の人には、所得水準に応じて金銭を直接給付するというもの。この立場は、ベーシック・インカムを政策論的に推進しようとする人(特に経済学者)に多い。

(3)給付つき税額控除: 減税政策や消費税の増税などを行った際に、一定の所得以下の人に減税分や増税分を直接給付するというもの。これは一部の国では既に導入され、日本でも具体的に検討されている。

■ベーシック・インカムの三つの長所

 このように、ベーシック・インカムは、再分配を金銭による直接給付によって行おうとするものであり、これは従来の「福祉国家」による制度的な再分配とは根本的に対立するものである。「福祉国家」と比較して、ベーシック・インカムの長所は、以下の三点に集約することが出来る。

(1)再分配のプロセスの透明性が高くなる。例えば、生活保護の受給者がバッシングに遭いやすいのは、制度運営に行政の恣意的な判断が強く働いているためである。ベーシック・インカムには、こうした恣意が介入する余地が少なく、国民の間の疑心暗鬼や不公平感を和らげることができる。

(2)分配された資源をどのように使うべきかについて、個人が決定する自由度が高まる。福祉国家では平等な再分配が生活の画一化をもたらしがちであったが、ベーシック・インカムはライフスタイルや文化の多様性との両立を可能にする。

(3)分配の手続きがはるかに簡素になり、行政コストが大幅に削減できる可能性がある。福祉国家には、制度を運営するコストが必要以上に膨張する傾向があり、ベーシック・インカムはこの問題を解消する有効なアプローチである。

■ベーシック・インカムに対する三つの批判

 以上の既存のベーシック・インカム論を踏まえた上で、少なくとも今の日本におけるベーシック・インカムの導入に対して、私がどうして否定的なのかを、簡単に述べておきたい。

 第一に、既存の社会保障制度と激しく衝突せざるを得ない。

 少なくとも、完全ベーシック・インカムあるいは負の所得税を導入する場合には、社会保険方式とは両立できないことは明らかである。ベーシック・インカムを導入しなければならないほど、現行の社会保障制度が修復不能なほど機能不全に陥っているのかと言われれば、やはり首を傾げざるを得ない。とくに、長い間医療保険や年金を支払ってきた人たちの「既得権」について、一体どう考えるのだろうか。

 第二に、経営者による安易な解雇がこれまで以上に横行する可能性がある。

 これまでの日本で解雇要件が厳しかったのは、労働者が企業という共同体のメンバーであり、生活上のコストを会社がすべて負担するという、日本型経営の雇用システムを前提にしてきたからである。そして、労働者の生活と生存がすべて企業に依存しているということは、経営者の側にも安易な解雇に対する心理的な歯止めになっていた。

 だから、ベーシック・インカムが導入されて、解雇されても最低限の生活が送れるようになるということは、経営者の解雇に対する心理的な負担が大幅に減ることを意味する。とくに日本のように労働組合の力が圧倒的に弱い社会では、安易な整理解雇が横行することになって、結果的に財政が破綻する可能性が高い。

 これに比べて、雇用と社会保障が結びついている「福祉国家」の場合は、もう少し解雇への歯止めがかかりやすいと考えられる。

 第三に、結局のところ社会的弱者に対する具体的な支援の道筋が不在である。

 ベーシック・インカムは、再分配を直接的な金銭給付に縮減し、「福祉国家」のような政策的・制度的な再分配についてはほとんど行わない。そうすると、たとえば貧困者に月8万の給付がなされたとしても、社会的な上昇の回路は依然として不在のままであるので、その少ない給付で生涯にわたって細々と暮らし続けていく人々が増える可能性がある。

 働かない人間がいても構わないじゃないか、と言い切るベーシック・インカム論者もいる。それ自体はその通りだとしても、現実にはあまりに無責任であろうし(「構わない」という世論が実際に形成される見込みは限りなく薄いから)、社会の持続可能な再生産という観点からも限界があることは明らかである。

 貧困者に対する具体的な支援は、政府ではなく民間企業とNPOに委ねればいいし、またそうあるべきだという人もいるかもしれない。しかし、日本では企業の社会活動の伝統もなければ、NPOの力量も依然として非常に脆弱であり、その運営費はほとんど税金による支援である。そもそも日本では、NPOの大前提となる寄付文化が皆無に等しい。
 
 むしろ、ベーシック・インカムは、悪くすると「税金で食っている癖に」「ちゃんと最低限の生活費は保障されているのに」と、社会的な弱者に対する自己責任論を蔓延させるだけの危険性もある。そもそも、貧困者は働く能力が低い(少なくともそう評価されている)からこそ貧困に陥っているのに、その原因に対する手当てなしに金銭だけが給付されても、何の根本的な問題解決にもならないだろう。

■「ベーシック・インカム的な福祉国家」の可能性

 以上のように、私自身はベーシック・インカム論については、もし部分的な導入以上のもの(完全ベーシックインカムおよび負の所得税)を考えているとしたら、現実の政策としては全くのナンセンスだと考えている。

 しかし、再分配の規範的な哲学としては、ベーシック・インカムは割合によく出来ているとも評価している。だから矛盾するようだけど、この哲学を基礎にして、現実には福祉国家的な制度的な再分配で対処するというのが好ましいと考えている。

 ベーシック・インカム論に飛びつく貧困運動の当事者には、「努力」や「働く意志」の名の下に貧困者を暴力的に排除してきた、これまでの社会保障制度のあり方に対する問題意識も多分に含まれている。確かに既存の福祉国家にも、少なくとも日本におけるそれ(「開発主義国家」と呼ぶほうが適切だろうが)には、労働や社会参加を事実上強制したり、分配が恣意的・選別的になってしまうような要素が存在していた。そしてそのことは、結果的に政府への不信感を醸成する原因にもなっていた。ベーシック・インカムには、こうした福祉国家の問題点を不断に修正していくための、規範的な哲学を提供する役割を期待したいのである。 

 この「ベーシック・インカム的な福祉国家」というのは、確かに論理的には根本的な矛盾であり、個人的にもまだ全く整理できていない問題だが、とりあえず今のところは、この方向性で再分配の問題を追及していこうと考えている。

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「負担の再分配」はどうして難しいのか

 多数派の日本国民は「福祉国家」を望んでいるにも関わらず、政府には厳しい歳出削減を求め、増税に対しては猛烈な拒否反応を示し、「既得権益層」を見つけてはバッシングして増税拒否を正当化するという矛盾した世論があります。日本では「負担の再分配」は、どうしてかくも難しいのでしょうか。何度か書いてきましたが、また改めてまとめておくことにします。

 第一には、日本の社会保障制度が「官僚主導」の歴史を持っていることです。現在のような日本の社会保障制度が確立したのは1960年前後と1973年なのですが、これは完全に一部の厚生官僚と、岸信介や田中角栄といった豪腕政治家によって主導されたもので、国民がこうした社会保障政策の決定に関与したという経験や記憶はありません。この時期は安保闘争や学生運動が盛んだった時期なのですが、まったく話題になっていませんでした。このような、福祉が官僚によって上から与えられたものであるという経験が、社会保障をめぐる問題を第一義的に官僚の責任にさせ、官僚が本当にギリギリになるまで追い詰められなければ、国民が負担に応じる理由はないという世論につながっていくことになります。

 第二には、過去の分配の方法が業界・団体単位で行われてきたことです。日本の政府は国民に普遍的な社会保障を提供するよりも、地方の土建業界に公共事業を、農協(農家ではなく)に補助金を、といった形で個別的に支援を施すやり方をとってきました。「護送船団方式」などと呼ばれる、金融機関の保護・規制もこれに入れてよいかもしれません。これは政治家と官僚に必然的に「利権」を発生させやすい方法だったのですが、経済が好調で財政的にも余裕のあった時期には、政治ジャーナリストのネタになる程度で済んでいました。しかし、経済が停滞して財政が厳しくなってくると、一部の業界・団体とそれに癒着している政治家・官僚だけが得をしているだけではないか、という疑心暗鬼を生むことにもなります。結果として、こうした「利権」を解体して「無駄な公共事業」などを大幅に減らさなければ、増税には応じられないという世論につながっていくわけです。

 第三には、「企業福祉」の伝統です。日本の企業組織は社員に過酷な長時間労働を課す一方で、よほどのことがない限り解雇はせず、さまざまな住宅や子供の教育などの厚生福利を社員に提供してきました。こうした企業福祉の経験は、自分たちの生活を向上させるためにはまず企業の体力を強化することが重要であり、増税によってセーフティネットを構築するまでもないという、いわゆる「新自由主義的」な経済政策を自然のものとして受け入れる基盤となります。さらに日本は企業ごとに賃金体系や昇進システムが異なり、正規/非正規のメンバーシップによって待遇が極端に異なるため、企業を横断したセーフティネットを構築するために負担を再分配するということへの合意の獲得が、どうしても難しくなります。

 最後に、労働組合の組織力が弱い上に、企業別に組織化されていることです。北欧の福祉国家は労働組合の組織力が極めて高く、そのことが社会保障を充実させるかわりに賃下げや増税にも応じるという交渉力を可能にしてきたのですが、日本の場合は労組が企業ごとに分断されていることもあり、せいぜい個々の企業で賃金のベースアップや雇用維持を確保する程度の力しか持っていません。言い方は悪いですが、日本の労組は経営者に「おねだり」をするくらいのことしかしてこなかったし、またできないのです。

 日本国民は負担の再分配自体を嫌がっているわけでは決してありません。実際、世界に類を見ない日本人の長時間労働は、個々の労働現場においては人々が負担の分配をいとわず引き受けていることの証拠です。しかし、この精神が「自分はこんなに身を切って働いているのに」という自意識となり、国政レベルではかえって公務員などへのバッシングを引き起こしているように思います。個々の現場で発揮している負担の再分配を、全体につなげていくことができないだろうかというのは、常々考えるところです。

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