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2009年10月

日本で自殺率が高いのはどうしてか

 日本の自殺率の高さについては、WHO精神保健部ホセ・ベルトロテ博士はこう言っている。「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている。これは他のアジア諸国やキューバでもみられる傾向だ。」こうした点は当の国の人間では気づきにくい見方かと思われる。(自殺許容度と実際の自殺率との相関を図録2784に掲げた。)
 ロンドン・エコノミスト誌(2008.5.3)は女子生徒の硫化水素ガス自殺(4月23日)の紹介からはじまる「日本人の自殺-死は誇らしいか」という記事で日本の自殺率の高さについて論評している。経済的な要因についてもふれているが、記事の主眼は日本人の文化的な要因、あるいは社会的特性であり、上記の見方と共通している。「日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直ることをめったに許容しない。自殺は運命に直面して逃げない行為として承認されることさえある。サムライは自殺を気高いものと見なす(たとえ、それが捕虜となってとんでもない扱いを受けないための利己心からだとはいえ)。仏教や神道といった日本の中心宗教は明確に自殺を禁じていたアブラハム系信仰と異なって、自殺に対して中立的である。」日本政府は9年間に自殺率20%減を目標にカウンセリングなどの自殺対策に昨年乗り出したが、重要なのは社会の態度であると結論づけている。「一生の恥と思わせずにセカンドチャンスを許すよう社会が変われば、自殺は普通のことではなくなるであろう。」
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html

 日本で自殺率が高い要因については、多くの人が興味関心があるところだろうが、真正面から取り組まれたということは意外に少ない。そこで、ここで個人的に思いついた仮説を簡単に論じていくことにしたい。

 上述の「データ図録」のデータを見ると、自殺率が高い社会は、社会主義といわゆる「開発主義」の体制をとってきた国に集中している傾向がある。つまり、旧ソ連諸国と東欧、そして日本および韓国などである。自殺の増大は「市場原理主義」による雇用の流動化と貧困の拡大のせいだという理解も時折見られるが、日本よりもはるかに「市場原理主義」的で貧富の差の激しい南北アメリカ社会では自殺は非常に少ないことからも、これは全く正しくない。なぜ自殺率が高い社会が、社会主義と開発主義の国に集中しているのかを、簡単に考察してみたい。

 社会主義国家と開発主義国家は、指導政党と政府が国民の全生活を手取り足取り面倒見るという、きわめてパターナリスティックな体制である。様々な政治的権利も社会保障も、ほとんど天から雨を降らすように、共産党や政治家・官僚によって上から一方的に与えられたものであった。日本の社会保障制度の歴史を見れば明瞭なように、それは完全に厚生官僚と岸信介・田中角栄といった「豪腕」政治家によって主導されたもので、左派政党や民衆運動の闘争の目標は、「革命」でなければ「安保」などの外交問題であり、長らく「福祉国家」に対してほとんど無関心であった。そして、日本においては貧弱であり続けた公的な社会保障を補完したのが、「日本型福祉」――企業組織による福利厚生、中小企業への財政支援、公共投資よる雇用創出――であった。
 
 社会主義と開発主義は、冷戦崩壊前後以降の経済の「グローバル化」によって激しく動揺することになる。その対応として、規制緩和や民営化などの新自由主義的な政策が採用され、それまでの手厚い雇用保障や公共投資は財政難と競争力低下の理由として大きく削減されていくが、このことが国民の間に広範な社会不安や絶望感を生み出すことになった。というのは、それまでパターナリスティックに国民の生活を手厚く保護していた指導政党や政府が、「グローバル化」や「国際競争力」というそれ自体はもっともな理由の下で、何の前触れもなく一方的に上から雇用保障や公共投資などの役割から身を引いてしまったからである。

 社会主義・開発主義体制の下にあった国民は、何の心の準備もないまま、この現実に突如として直面し、どう対応したらよいのか全くわからなくなってしまった。それは、何も考えずに母親に全面的に依存して安心してきた子供が、何もできないままいきなり荒野に放り出されたようなものである。これは単に社会保障の権利を失ったというだけではなくて、まさに「世界」そのものから見放されたかのような絶望感をもたらすことになったのである。

 アメリカのような自由主義的な体制であれば、グローバル化は自らの個人主義・競争主義的な生活様式の延長線上にあるので、それが不安や絶望を招くということは基本的にない。北欧のような社民主義的な体制も、組織力の高い労働組合が企業・政府との交渉を通じてグローバル化に対応した「福祉国家」の再編を行うことで、社会保障のセーフティネットを維持することができた。

 これに対して、指導政党と官僚のリーダーシップに依存してきた社会主義と開発主義の国では、国民の生活態度が競争社会に全く対応しておらず、さらに労働組合やNPOなどの社会運動の力が非常に弱いため、企業と政府による雇用保障と公共投資の一方的な削減を阻止すること(そしてそれに代わる社会保障の仕組みを要求すること)ができなかった。結果として、まさに子供が荒野に放り出されるような全く無防備な形で、新自由主義的な個人化された競争社会に立ち向かわなければならなくなったが、それは多くの人にとって絶望的なことであった。

 以上のようにここでは、社会主義と開発主義というパターナリスティックな体制の伝統の下に、グローバル化による新自由主義的な政策を導入しようとした社会で自殺率が高くなる、という仮説を提示した。日本の自殺率の高さもこの世界史的な文脈で理解すべきであって、過剰に日本の特殊事情に求めるべきではないと考える。断わるまでもないかもしれないが、自殺率が高い社会が「悪い」「歪んだ」社会の指標である、というわけでは必ずしもない。自殺率の低い社会では、逆に他殺率の高い傾向がある。

 日本に固有の特徴を挙げるとすれば、50・60代の自殺と、地方・農村部での自殺が多いことがある。この背景には色々あるだろうが、一つには旧来は企業組織と公共事業によるパターナリスティックな生活保障がきわめて手厚かったことの裏面として解釈することができる。上述の記事のように、自殺率の高さを「日本文化」で説明しようとする議論が多く、私自身もその誘惑に釣られてしまうのだが、結局それは何も説明したことにはなっていないので、可能な限り避けるべきであると考える。 自殺許容度と自殺率の高さも、「データ図録」では強い相関があることになっているがhttp://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2784.html、データを冷静に見ればそれほど強い相関はないと思う。

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貧困解消のためには国民負担率を上げること

日本で最右翼の増税論者である権丈善一氏が、国民負担率と相対的貧困率が綺麗に相関していることを指摘している。

<a href="http://maishuhyouron.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2010/04/06/kokuminhutan.gif" class="mb"><img alt="Kokuminhutan" title="Kokuminhutan" src="http://maishuhyouron.cocolog-nifty.com/blog/images/2010/04/06/kokuminhutan.gif" width="300" height="191" border="0"  /></a>

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare254.pdf

経済を「市場」から見るか「再分配」から見るかで、「成長戦略」も相当に変わってくる。もちろん、市場から見る人も再分配の重要性はよく理解しているが、それは市場のメカニズムがより純粋に作動するための再分配であり、だから無条件かつ一律の現金給付である「ベーシックインカム(最低所得保障)」を好む傾向がある。

再分配から経済を見る人たちも市場を敵視しているわけでは全くなく、むしろ市場のメカニズムの外部の論理を導入するほうが、結果的に市場への信頼性と活力が高まると考えるのである。再分配派にとって、市場はあくまで経済システムを構成している制度の(重要ではあるが)ひとつに過ぎない。だから、政府やNPOなどの非営利組織が、市場とほどほどの緊張関係を維持していたほうがよい、という結論になる。

好みはあるだろうが、私は基本的に再分配派のほうに同意する。政府の暴走が抑制されるべきであると同じ意味で、市場の暴走もどこかで修正されなければならないが、市場派の経済理解からはその論理が出てこないように思われるからである。

そして、もし経済学の永遠の課題が「貧困の解消」だとすれば、そのための中心的なアプローチが市場ではなく再分配であるということは、権丈氏の示すデータで明らかだろう。もちろん、再分配が社会主義的な「貧困の平等」に陥ることなく、それを持続的なもの、活力のあるものするためには、市場の役割が絶対に不可欠なものとなる。

市場派の人たちで特に納得できないものがあるとすると、再分配のためには市場による経済成長がまず優先されるべきだという論理である。もちろん成長戦略は必要だが、いますぐに出来ること、つまり国民負担率を上げて低所得者(特に介護従事者のような需要が高いにも関わらず待遇の劣悪な労働者)への再分配を渋る理由には、全くならないと考えるのである。

権丈氏も指摘するように、「国民負担率」というのは、税金や社会保険料を「負担」であると誤解させるという意味で、あまり適切な言葉ではない。ただ「国民連帯率」というのも、どこか誤魔化しくさい感じがするのだが。

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社民党のこれから

 山口二郎氏が社民党についてやや辛口に論評している。

社民党のこれから ―― YamaguchiJiro.com

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もちろん、民主党のこれからについて、私は楽観していません。鳩山、小沢、菅、岡田の4人について、私は基本政策を共有できると考えています。しかし、次の世代となると、いささか心もとない感じがします。平岡秀夫など、リベラル勢力も存在しますが、いまひとつ迫力不足です。まして、今回誕生した大量の新人議員が何を考えているのかは、見当がつきません。生活第一、平和主義の路線を持続するためには、民主党の中のリベラル勢力がもっと大きくなる必要があります。

そのためにジリ貧の社民党は何をなすべきでしょうか。残念ながら、社民党は東京の比例代表選挙でも議席を取れないまでに衰弱したことを正面から認めてほしいと思います。今回、現状維持ができたのは、民主党との選挙協力のおかげです。ここで私は失礼を省みず、社民党が民主党に合流し、民主党の左側を強化すべきだと申し上げたい。個人的な感情や行きがかりにとらわれて大局を見失うことは、政治家にとって大きな悪徳です。時代の潮流は、国際協調と新自由主義の克服に向かっています。戦争と貪欲の時代を終わらせたいと、世界の人々が願っているのです。日本でその流れを強めるために、平和と平等を基軸とする政治勢力をより大きなものにしようではありませんか。そのために社民党も歴史的決断をしてほしいと思います。(社会新報9月30日号)

http://www.yamaguchijiro.com/?eid=794

 社民党は90年代半ば以降、護憲のほかにNPOとフェミニズム、マイノリティの権利を中心的に唱えてきた。つまり、「新しい社会運動」と「アイデンティティ・ポリティクス」である。マルクス主義の凋落以降の左派が採用してきた戦略である。

 90年代以降、学者の間では「新しい社会運動」や「アイデンティティ・ポリティクス」をめぐる議論が盛んだったが、現実にはNPOが何のことやらわからない人のほうが依然として大多数であり、「アイデンティティ・ポリティクス」は「マイノリティ」に過剰に肩入れすることで、「マジョリティ弱者」からのバックラッシュを(あくまで部分的に)引き起こしただけであった。実際、社民党は無視できるような弱小政党のわりに、ネット上では過剰に大きく扱われて批判される傾向があった。

 社民党は「弱者」「マイノリティ」の味方を標榜していたが、社民党議員自身の「弱者」「マイノリティ」感のあまりのなさについて、反省する感性と能力に欠けていた。都市のキャリアウーマンや市民活動家といった、人によっては「社会的強者」と見られる層の代弁者であるかのようなイメージを、自ら修正しようとする努力も怠っていた。

 2006年以降の労働・雇用問題の盛り上がりも、あまり社民党の追い風にはならなかった。ネット上では左派に対する支持が部分的に回復したが、その中心は「新しい社会運動」では敵対関係にある共産党であって、社民党ではなかった。90年代後半降の社民党が労働問題に無関心になってしまったので、当然のことではあった。

  社民党は人文系の大学教員層に根強い支持がある(こう言ってはなんだが両者とも生活感のなさがそっくりである)ので、ある種の安定した支持率がある。だから全く消滅するということはないだろうが、これは「新しい社会運動」「アイデンティティ・ポリティクス」がほとんど人文系の知識人の間の内輪ネタで終わってしまったこと、その無残な失敗を意味するものに他ならないと思う。

 同じ左派系の知識人層でも、若い世代は「新しい社会運動」「アイデンティティ・ポリティクス」が経済弱者の問題にほとんど対応できていないことに対して、批判的な姿勢をとるようになっている。以上の経緯については、山口二郎氏も評論家的に批評するだけではなく、当事者として一定の責任があるはずだろう。

 私は山口氏とは逆に、「社民」を看板にする政党が残るほうが、望ましいと考えている。繰り返すように、社民党は少数派としての支持率は安定しているのであり、山口氏がやるべきは民主党が社民党を切り捨てないことを提言し続けることだろう。

 これからの社民党は、「新しい社会運動」の名の下に国家権力や経済の問題に無関心を装うことをやめること、そして「アイデンティティ・ポリティクス」の名の下に社会的弱者を「マジョリティ」と「マイノリティ」に分断しないことが重要である。そのためには、「大きな政府」や「福祉国家」を看板にし、国家権力と経済界の役割を積極的に認め、増税政策にもむしろ主導権をとるくらいの姿勢が必要になってくると考える。

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排外主義と社会階層

【左翼ボコボコ】9・27外国人参政権断固反対!東京デモ

http://www.youtube.com/watch?v=tTyANPKCczc&feature=player_embedded

 不明を恥じるようだが、日本でこうしたわかりやすい排外主義運動を見るとはつい最近までは思ってもいなかった。この運動が今のところ、ごく一握りの人々による脆弱なものであることは明らかだが、主張している内容そのものは『嫌韓流』やネット上を中心に語られてきたものであり、一定のシンパサイザーを背景にしていることは確かだと思われる。排外主義にシンパシーを抱きやすいのはどのような層なのか、ここで簡単に仮説を構築してみたい。

・コスモポリタンな富裕層・新中間層

 90年代末以降の「構造改革」の中で力を伸ばした富裕層・新中間層は、現在の政治・経済をリードしているので、そもそも国家の制度的な支援や保護に依存する必要性が少なく、外国人を排除して「日本人」だけに権利を制限しようとする動機が弱い。総じて移民受け入れにも積極的である。もちろん、財界や政治家のなかには「愛国」を掲げる保守主義者もいるが、それは現行秩序の維持か外国との経済的・軍事的な競争を念頭に置いたもので、基本的には排外主義的なものではない。

・生活保守主義的な旧中間層

 高度成長期以来の終身雇用システムを享受してきた正社員層や年金生活者などの旧中間層は、90年代以降に生活水準が緩やかに下がっており、年金など国家の社会保障制度への依存がそれなりに強い。そのため、自らが現状得ている権利の維持を切実に望む傾向があり、これが経済の悪化や社会保障制度の「破綻」を背景にして、外国人に対する排外主義的な世論を構成する可能性はある。しかし一方で、彼らは生活を破壊してしまうような過激な行動は全く望まず、団塊世代中心に人口や投票率が高いので、この層の利害関心は選挙結果にも反映されやすい。そして、この層が最大の顧客であるマスメディアもこの層の感情を代弁した議論が多く、敢えて排外主義のような極端な動きに飛びつく必要性がない。

・「日本人」以外に何ももたない不安定低所得層

 問題になるのは、2000年代になって急増した非正規労働者と低賃金正社員のような不安定低所得層である。彼らの職場は労働基準法以下であることは当たり前で、上司に不満や要求などを口にできるわけもなく、地域社会に依存できる人もほとんど珍しくなっている。さらに悪いことに、国家による社会保障制度の生活上の必要性が極めて高いにも関わらず、健康保険や年金すら満足に払えていない人が多い上に、利害関心が人口や投票率の面で選挙結果に反映されにくいことである。先にも述べたとおり、既存のマスメディアは団塊世代を中心とした旧中間層に配慮したものである。

 こうして不安定低所得層は、職場では全く無力であるだけではなく、自らの苦境について政治からもメディアからも全く無視されているというルサンチマンを潜在的に抱えている。もちろん、彼らの利害関心を代弁する議論は新書やインターネット上において一定数存在するが、そうした言説を目にするのは所詮は一握りにすぎず、一般レベルにおいては「自己責任」言説が依然として根強いものがある。

 それでは、不安定低所得層が自らの利害関心を代表しようとするためにはどうすればいいのかというと、それは「自分たちも同じ日本人である」ということになる。つまり、「日本人」であるという以外に自らの困難を訴えるための正当性の資源を何一つ持たない彼らは、容易に排外主義的な言説にシンパシーを抱きやすい性質をもっているのである。

 そもそも、「新自由主義」を批判する言説はそれなりの知的能力を要求するが、「日本人」であることには何一つ知識は必要なく、それに賛同するための敷居がきわめて低いという利点がある。「在日」それ自体は実のところどうでもよく、「日本人」であることの手応えを得るために、あらためて呼び出された仮想敵に過ぎない。

・「特権」とはかつての「日本人」の生活水準

 そして、この排外主義は、社会経済的な利害関心とも絡み合っている。「在特会」の会長の話では、在日が年金の受給権を主張したことへの憤りが会の設立の動機であったという。これが事実かどうかはわからない。しかし重要なのは事実かどうかよりも、これが今の日本国民の世論感情に訴えると彼が確信していたことなのである。つまり、年金というのは言わば旧来の安定正社員の身分を象徴する制度であるが、現在は「普通の日本人」でも当たり前のようには享受できない「特権」になっている。その「特権」に、「在日」であるというだけで平然と要求できるという態度に対する、「普通の日本人」のルサンチマンが排外主義的感情の根底にある。

 つまり「在特会」のいう「特権」というのは、そう遠くない昔には「日本人」であれば当然のように享受できた(と少なくとも思われている)権利や生活水準、ということを意味している。その意味で、「在日特権」を批判する排外主義者は今のところごく一部にすぎないが、「公務員特権」を批判する一般世論と気分としては緩やかにつながっていることがわかる。

・排外主義は社会的な弱者の叫び声

 以上のように、社会経済的な階層問題から、排外主義の問題についての大雑把な枠組みを提示してきた。

 富裕層が移民受け容れに大きく賛成し、旧中間層と低所得層に強い拒否反応があるように、弱者の立場から開放的な社会を構築するというのは、移民受け入れを推進するジャーナリストや学者が考える以上に困難である。誤解を恐れずに言えば、排外主義は「日本人」であること以外に自らの存在の正当性を示すことのできない、社会的な弱者の痛切な叫び声と言ってよい。だから排外主義を唱える人を私は徹底的には憎めない。

 むしろ、移民を積極的に受け入れて経済を活性化し、少子化問題を解決すべきだなどという、一部の富裕層や政治家の発言にこそ強い憤りを感じる。排外主義のための燃料を投下しておいてコスモポリタンを気取る彼らは、現実の移民がどのような生活の困難に直面しているのかについては無知である以上に関心すらなく、実のところ排外主義者以上に残酷であると言うべきである。

 民主党は移民や在日外国人への開放路線をとっているが、経済や生活の問題と切り離したところで政策を行えば、必ず激しいバックラッシュを引き起こして破綻することは、是非とも肝に銘じてほしい。

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