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リセット思考の拒否

 

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)
Book
新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)
著者 濱口 桂一郎
販売元 岩波書店
価格(税込) ¥ 735

 労働法制に関しては完全に無知なので、ただただ一方的に勉強させてもらったという感じである。一素人として通読するのは少々疲れたが、それだけの価値のある内容を持った本である。一つあるとすれば、なぜか丁寧語で叙述されているところくらいか。

 内容についてコメントできる能力はないので、著者に底通する最も共感できる(と私が一方的に感じた)価値観について語っておきたい。それは、最終章で既存の日本型労働組合を再活用していく道を模索しているように、「リセット思考を徹底的に拒否する」ということである。ここで「リセット思考」というのは、現行の社会制度とその歴史的な文脈、世論の感情や文化意識などを抜きにして、法律学にせよ経済学にせよ、単純に論理的な一貫性のみで政策論を展開してしまうことである。

 例えば、いまの日本で「同一労働同一賃金」や「ベーシックインカム」をまじめに唱える人や、馬鹿の一つ覚えのように「北欧の社会保障制度に比べて日本は・・・」などとのたまわる人がそうである。「リセット思考」は、規制緩和論者であろうが福祉国家論者であろうが同じである。平たく言えば、「日本社会に固有の事情」というものを、まったく勘案しないどころか、それを政策を進めるにあたっての否定すべき障害としか考えてないのである。そして何かというと「抜本的な改革」を連呼するのだが、その行き着く先は結局のところ、「利権」批判か「民度」の低さを嘆くものか、いずれにせよ非生産的なものでしかない。

 残念なことに今や政治動向に圧倒的な影響のあるマスメディアでは、こういう一見歯切れのよい人たちばかりが目立ってしまっている。それどころか、現場の困難に直面して懸命にもがいている、もの言わぬ官僚の仕事の遅さに痺れを切らし、それを「仕事に無駄が多い」と都合よく解釈してバッシングを展開している。なかには「脱藩官僚」を売りにする人物もいたりするからたちが悪い。

 現実の社会をよりよいものにしたいと真摯に願っている人であれば、こうした「リセット思考」に陥ることは絶対に有り得ない。政策というのは、前に進んだ道の後に次の道を書き足す、ということでしか有り得ないからである。いきなりまったく違う場所から道を書き始めようとすれば、ほとんどの人は道に迷い、途方にくれてしまうだろうし、それは結局のところ政策を無残な失敗に終わらせることになる。

 しかし、それでも「リセット思考」の政治家や学者は、政策がうまくいかなかったことを「既得権益層」のせいにすれば、自分の責任から逃避することができる。実際閣僚経験者でも、「霞ヶ関と闘った○○日」みたいな本を出版するような人がいる。しかしそれは、その人が自らの政治理念の実現に対して、いかに不真面目な態度で臨んでいたのかを示すものでしかないように思う。

 「リセット」が絶対的に不可能である、というわけではない。ただし、それは20世紀前半に世界が経験した総力戦や革命、大恐慌のような例外的な状況においてか、あるいは一部の政治エリートが強権的に推し進めるのかのいずれかである。いずれにせよ、われわれが下からの熟慮と討議、地道な利害の調整に基づく民主主義というものを放棄すべきないとすれば、「リセット」は不可能なのである。

 もともと「保守主義」というのは、こういう「リセット思考」の拒否を眼目としているはずであるが、今日における自称保守の人たちにおける軍事・外交論は、歴史シュミレーションゲームを思わせるような「リセット思考」の極致としか言いようのないものになっている。冷戦時代には気骨のあるバランス感覚を示していたはずの日本の保守論壇は、田母神氏のような人物を無邪気に持ち上げるまでに堕落してしまった。

 内容そのものにはまったく触れることができなくて申し訳ないが、その意味で本書は保守主義的思考のもっともよい部分を継承していると言うことができる。逆に言うと、「正社員の賃金を下げれば問題は解決する」などという「リセット思考」の持ち主にとっては、最後まで我慢して読み通せないかもしれないのだが。

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驚くべきことに、早速濱口先生のブログで言及していただきました。すべての批評にくまなく言及されているのは本当のようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/

上から目線の批評を書いてしまい、実に汗顔の至りであります。「正社員の賃金を下げれば問題は解決する」というのは、言うまでもなく城繁幸氏のことを念頭に置いていたもので、ちょっと表現が不十分になってしまいました。

「不利益の再分配」という話はまったくもって同感でありまして、個人的には「経済成長」の話が重要であることはわかるんですが、どうもリアルな感じというか、それで何が解決するのかがピンとこなくて、もっと「不利益の再分配」の話のほうがリアルかつ切実に大事なんじゃないかなと思っています。それにしても今回の選挙は、いかに国民が「不利益の再分配」を嫌がっているのかを、まざまざと見せつけられたわけですが・・・。

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コメント

はじめまして。
濱口さんのところからリンクをたどってきました。

エントリをさかのぼって拝読させていただきました。

「正社員の賃金を下げれば問題は解決する」ということを
主張する「リセット思考」の方々はみなさん「北欧」と口にし、
「オランダ」「デンマーク」などと言われるわけですね。

しかし、そのためには「住宅」と「所得」が、「生活給」とは
別の仕方で保障される必要があることを、まったく言わない。
「小さな政府」でそれをやろうとして「北欧」と言うのは変です。
濱口さんのご本では「住宅」「ネオ・コーポラティズム」への
言及がありますね。「大きな政府」が必要だというのは
「企業保障」から「社会保障」への転換には、
「税による所得再分配」を強化する必要があるから、ということだと思います。

ところで、実は「小さな政府」も一時的にではありますが、
低所得者に対して「住宅」と「(不労)所得」を保障していたりします。
それを可能にしたのが「サブプライムローン」という「住宅ローン」です。
「小さな政府」にはそれなりに「住宅」と「所得」を保障する
社会的な仕組みが備わっており、それが国民の消費を支え、
内需を維持することを可能にしています。

「サブプライムローン」についても「リセット」せず、
その失敗の原因を見極める、流通過程でのシステミックリスクへの
対応を考える、ということは行われてもよいと思いますが、
「正社員の賃金を下げれば問題は解決する」としか言わない
「リセット思考」の方々には、上記のどちらも頭にはありません。
彼らがいう「小さな政府」というのはアメリカにさえない
「ユートピア」のようです。

投稿: haruto | 2009年9月 2日 (水) 11時43分

こちらこそはじめまして。

>「正社員の賃金を下げれば問題は解決する」ということを
主張する「リセット思考」の方々はみなさん「北欧」と口にし、
「オランダ」「デンマーク」などと言われるわけですね。

外国の事例が「モデル」として語られるきにいつも思うのは、それを可能にしている環境や条件を不問にしていることがあまりに多いことですね。「オランダ」「デンマーク」は、規制緩和論者と福祉国家論者がそれぞれ全く別の観点から過剰に持ち上げるので、素人はこんがらがってしまうわけです。濱口先生の著書で、遅ればせながらそれがようやく解けたという感じがしました。

投稿: にょしん | 2009年9月 2日 (水) 18時55分

コメントへのレスをありがとうございます。

きわめて暴力的かつ単純化して言ってしまうと、
グローバル化への有効な対応策の総称を
「フレクシキュリティ」と名付けた場合に、
少なくとも2つの類型がある、ということなんだと思います。
そして、それは「モデルの実現を可能にしている環境や条件」の問題で、
北欧の場合は「住宅政策」と「ネオ・コーポラティズム」、
アメリカの場合は「サブプライムローンのような金融商品」と
「チャリティ」で、このどちらも欠いた日本が、先進国では
一番ひどい状況になっている、ということではないかと思います。
アメリカよりひどい、という現地報告も出てますね。

城さんのような素朴なミクロ分配派VSリフレ派、ということでは
リフレ派のほうがまだましだと思います。ただ、
飯田さんは金融政策で「成長」をやろうとするところに
疑問が残ります。ご専門が金融論(確か)なので
そうなるんだろうとは思いますが、「社会保障」の整備で
「成長」というオプションはあると思いますので。

「社会保障」に比べて「金融政策」ってそれが行われたあとに
存在するはずの「人間の顔」が見えないんですよね。
「労働力の再生産」というところに関わる「人間の顔」が
どのようなものになるかは、政策を考える時には、
大切なんじゃないかと思います。

長文、失礼いたしました。

投稿: haruto | 2009年9月 2日 (水) 20時55分

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