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官僚的な態度と政治的な態度

 官僚的な態度というのは、「現実がこうなんだから、これしか方法はない」という現実上の限界に対する諦念と従属を指すものであり、政治的な態度というのは「現実はそうかもしれないが、それは社会として正しくない」という、普遍的な正義やあるべき社会に向けて現実を再構成していこうとするものである。

 抽象的に言えば官僚的な態度とは必然性であり、政治的な態度とは創造性である。どちらかが正しいというのではなく、社会を運営するに当たってどちらも必要不可欠な態度であり、両者の緊張関係のなかで現実的であると同時に倫理的でもあるような、適度にバランスの取れた「政策」が出力されるのが望ましい形である。

 問題は、政治のなかに官僚的な態度が紛れ込んでしまうことである。例えば戦時中のように、「非常時」や「生命線」といった言葉で現実への従属を強要し、総力戦政策を正当化するような態度である。実のところ90年代末以降の「構造改革」と呼ばれているものも、これに近いところがあった。つまりそれは、「財政危機」とか「経済のグローバル化」の名の下に、社会保障給付を中心とする再分配を切り下げ、市場主義的な規制緩和政策を正当化するものであったからである。

 こうした官僚的な態度に基づく政治では、そもそも人為的に構築されているはずの国際関係や経済制度といったものに手を加えていくのではなくて、むしろそうした「現実」への過剰な適応や屈服を求められる。隣国が核兵器を所有しているならこちらも核兵器をとか、グローバルな経済競争では低賃金化は必然的だから文句を言うやつは経済がわかっていない、そんなことを言う人が実際にいる。そして、これに抵抗感を示す人たちに対しては、専門家や事情通が膨大な知識を駆使して、「リアルな国際情勢に疎い」とか「経済というものを知らない」などと、一方的に黙らせてしまう。

 「脱官僚」が叫ばれているが、昔から存在している官僚主義への批判というのは、現実を改革するのではなく、現実への適応・従属に安住するという「官僚的」な態度そのものにも向けられていたはずである。少なくとも、マックス・ヴェーバー、ハンナ・アーレント、丸山眞男にといった知識人にとってはそうであり、特にアーレントや丸山にとっては現実の必然性そのものへの従属や諦念こそがファシズムの根源であった。

 今の政治家は表面的には官僚に対する厳しい批判を行っているように見えるが、「財政危機」という「現実」の名の下に様々な政策を正当化している点では、きわめて官僚主義的である。例えば、ある有名な地方自治体の知事のように、「財政危機」という現実によって行政の人件費だけではなく、教育費や医療費といった公的なセーフティネットを大幅に削減するのに全く躊躇しないわけである。本当に政治的な精神の持ち主であれば、あるべき教育や社会保障のためにはどれだけの行政人員や財源が必要(あるいは不必要)なのか、という順番で物を考えていなければならない。財政赤字の解消のために歳出自体を削ればいいという発想は、まさにそれこそが官僚主義な態度なのであって、これが「改革」の名の下に遂行されるのは、まさに政治として本末転倒の極みとしか言いようがないだろう。

 官僚が政治の場面に介入するという意味での「官僚政治」は批判されるようになっている。しかし、今後強く批判されなければならないのは、国会議員や自治体の首長が、官僚的な態度で政策を正当化するという意味での「官僚政治」である。「改革」の名の下に、「現実が厳しいのだからそれに従え」と声高に語る政治は、もはや政治の名に値しない。

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