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2009年9月

「負の所得税」批判

 柄にもなくフーコーの本を読んでいたら、「負の所得税」の話が出てきて、それで負の所得税のグロテスクさがなんとなくわかってきた。

ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79) Book ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)

著者:ミシェル フーコー
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  前のエントリで、負の所得税が労働インセンティヴを制度的に操作しようとしている点を批判したが、より根本的な問題点は、負の所得税が現行の経済システムそれ自体については全面的に肯定してしまうことである。今の労働・雇用問題の大部分は、あきらかに不適切な規制緩和による過当競争と雇用の流動化にあるのだが、負の所得税論はそれ自体を問題にしようとしない。つまり、経済システムのあり方を問題視するのではなく、そこから必然的に発生するネガティヴな効果への金銭的な手当をすればいいだけ、というわけである。

 雇用の流動化は避けられないからベーシックインカムと負の所得税を、というのは理屈としては明快そのものだが、本当にそれでいいのだろうか。流動性を止めることはできないし、またすべきでもないのかもしれないが、適正水準に緩和することぐらいのことは試みてよいのではないだろうか。それが出来ないほど政治とは、そして人間とは無力なものなのだろうか。私はそう思わないというか、そう考える必要はないと思うのである。

 要するに、私が負の所得税に同意できないのは、経済システムそれ自体を是正していくという道を、最初から放棄しているからなのである。負の所得税は社会を編成する根本原理が市場経済であり、この原理は1ミリたりとも曲げてはいけないということを大前提にしている。別に社会主義を目指せというのでは決してなく、20世紀を通じてどの国においても「社会政策」というものは、市場経済とは別の論理をもちこむことで国民生活を安定化させる、ひいてはそのことが市場経済それ自体の信頼性を高めていく、というものだったはずである。福祉国家論の用語で言えば「脱商品化」である。言うまでもないが、これは自由経済の否定や規制強化を意味するものでは決していない。

 ベーシックインカムは哲学・理念としては支持しているが、負の所得税については、あまり積極的には賛成できない。19世紀イギリスのスピーナムランド制度は負の所得税の近いが、その経験が示しているのは、経営者による安易な賃金切り下げや解雇が横行してしまうことである。モラルハザードなどよりも、こっちのほうがはるかに心配すべき問題であり、そうなると労働現場では、濱口氏の唱える「産業民主主義」の存在する余地など、全くなくなってしまうだろう。全国的な労働者組織が強力な社会であればまだしも、連合が大企業高齢正社員の組織としか見られていないような日本では現実的ではない。

 ベーシックインカムを唱導する人の間でも、負の所得税に関しては意見が分かれているようである。哲学はベーシックインカムで、具体的な方法はワークフェアで、というのが私の今のところの大雑把というか、いい加減な考えであるが、これについてはそのうち。

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官僚的な態度と政治的な態度

 官僚的な態度というのは、「現実がこうなんだから、これしか方法はない」という現実上の限界に対する諦念と従属を指すものであり、政治的な態度というのは「現実はそうかもしれないが、それは社会として正しくない」という、普遍的な正義やあるべき社会に向けて現実を再構成していこうとするものである。

 抽象的に言えば官僚的な態度とは必然性であり、政治的な態度とは創造性である。どちらかが正しいというのではなく、社会を運営するに当たってどちらも必要不可欠な態度であり、両者の緊張関係のなかで現実的であると同時に倫理的でもあるような、適度にバランスの取れた「政策」が出力されるのが望ましい形である。

 問題は、政治のなかに官僚的な態度が紛れ込んでしまうことである。例えば戦時中のように、「非常時」や「生命線」といった言葉で現実への従属を強要し、総力戦政策を正当化するような態度である。実のところ90年代末以降の「構造改革」と呼ばれているものも、これに近いところがあった。つまりそれは、「財政危機」とか「経済のグローバル化」の名の下に、社会保障給付を中心とする再分配を切り下げ、市場主義的な規制緩和政策を正当化するものであったからである。

 こうした官僚的な態度に基づく政治では、そもそも人為的に構築されているはずの国際関係や経済制度といったものに手を加えていくのではなくて、むしろそうした「現実」への過剰な適応や屈服を求められる。隣国が核兵器を所有しているならこちらも核兵器をとか、グローバルな経済競争では低賃金化は必然的だから文句を言うやつは経済がわかっていない、そんなことを言う人が実際にいる。そして、これに抵抗感を示す人たちに対しては、専門家や事情通が膨大な知識を駆使して、「リアルな国際情勢に疎い」とか「経済というものを知らない」などと、一方的に黙らせてしまう。

 「脱官僚」が叫ばれているが、昔から存在している官僚主義への批判というのは、現実を改革するのではなく、現実への適応・従属に安住するという「官僚的」な態度そのものにも向けられていたはずである。少なくとも、マックス・ヴェーバー、ハンナ・アーレント、丸山眞男にといった知識人にとってはそうであり、特にアーレントや丸山にとっては現実の必然性そのものへの従属や諦念こそがファシズムの根源であった。

 今の政治家は表面的には官僚に対する厳しい批判を行っているように見えるが、「財政危機」という「現実」の名の下に様々な政策を正当化している点では、きわめて官僚主義的である。例えば、ある有名な地方自治体の知事のように、「財政危機」という現実によって行政の人件費だけではなく、教育費や医療費といった公的なセーフティネットを大幅に削減するのに全く躊躇しないわけである。本当に政治的な精神の持ち主であれば、あるべき教育や社会保障のためにはどれだけの行政人員や財源が必要(あるいは不必要)なのか、という順番で物を考えていなければならない。財政赤字の解消のために歳出自体を削ればいいという発想は、まさにそれこそが官僚主義な態度なのであって、これが「改革」の名の下に遂行されるのは、まさに政治として本末転倒の極みとしか言いようがないだろう。

 官僚が政治の場面に介入するという意味での「官僚政治」は批判されるようになっている。しかし、今後強く批判されなければならないのは、国会議員や自治体の首長が、官僚的な態度で政策を正当化するという意味での「官僚政治」である。「改革」の名の下に、「現実が厳しいのだからそれに従え」と声高に語る政治は、もはや政治の名に値しない。

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負担の再分配への合意形成を妨げる要因について

 前回、日本では負担の再分配のための世論形成が困難な状況にあると書いた。私が最近考えているのは、この単純な、多くの先進国で当たり前のようにやっていることが、今の日本でこれほど困難なのはどうしてなのかということにある。その歴史的・社会的な要因について、今の知識の範囲内で思いつくことを、以下に簡単にまとめてみたい。あまり上手く書けた感じがしないので、改訂版を書く可能性もあります。

(1)官僚主導型の社会保障整備
 日本の社会保障制度は戦時中に起源を持ち、1960年前後と1973年に一気に整備されていったが、完全に官僚の上からのプランニングによる、一部の政治家の主導で導入されたものであった。その動機も、西欧の福祉国家の単純な模倣というキャッチアップ型の近代化であり、社会主義勢力への対抗という以上の意味合いはなかった。労働組合やこの時期盛んな大衆運動はこのプロセスにほとんどノータッチであり、選挙の主要な争点になったこともほとんどなかった。政治が社会保障の問題に関心を持ちはじめたのは、ようやく2000年代の半ばに入ってからで、それまでは制度の運営と改革をほとんど官僚に放任状態であった。このことは現在、社会保障給付に伴う財源の負担の責任を全面的に官僚に還元し、「官僚の無駄遣い」という形での非難を高め、増税の拒否を正当化する根拠となっている。

(2)増税なき再分配制度の構築――企業福祉と公共事業
 1970年代半ばに「福祉国家の危機」を迎えた西欧諸国は、程度の差はあれ消費税の導入によって増大する社会保障費の財源を調達する道へと進んだ。しかし日本では1980年代に他国よりも高い経済成長率を維持したことを背景に、企業が社員の福利厚生を全面的に請け負うという「企業福祉」と、地方への公共事業を通じて雇用の創出と消費の拡大をはかるという、二つの方法によって消費税の導入を低水準に抑えることができた。このことが一時はある程度の成功を収めたことで、規制緩和や公共投資による経済成長によって社会保障費の財源をまかなうことできる、という理解を政治家も国民も選好していくことになった。

(3)企業別組合の限界
 日本は労働組合が企業別に組織されているため、個々の企業で賃上げ闘争を行って「企業福祉」の充実を求めるだけで、労働者全体で賃金と生活保障給付の再分配を行うための能力と回路を全くもたなかった。さらに、非正規職員が全体として排除され、労働団体の中での発言力がほとんどないことも、低賃金労働者への再分配を現実的に著しく困難にしている。大企業中堅正社員以外の多数の労働者にとっては、労働組合は自らの利害を代表するような組織ではまったくなく、むしろしばしば敵対関係にある。「フリーター労組」は、目の前の深刻な問題を解決するには絶対に欠かせないものになっているが、労働者間の負担の再分配への道筋をつけるような役割を果たす可能性はほとんどない。

(4)「構造改革」と被害者感情
 以上の困難をさらに深くしたのが、90年代末以降の「構造改革」である。構造改革の功罪をどう評価するにせよ、明らかなことは市場競争の激化と社会流動性の高まりによって、大企業の役員からフリーターにいたるまで、不安感やリスク感が飛躍的に上昇したことである。富裕層は競争に打ち勝つために一瞬たりとも止まることを許されず、中間層はこれ以上流動性に巻き込まれないために懸命に身を固めるようになり、低所得者層は一年後の生活すら見通しが立たないという状況にある。しかも、構造改革の結果として実現した経済成長は2パーセント程度で、中・下層以下の人々の収入はむしろ減少し、逆に2006年半ば頃から「実感がない」として構造改革への急激なバックラッシュが起きるようになった。結果として、人々のなかに後ろ向きの被害者意識が蔓延するようになり、負担の再分配を納得させるための精神的な余裕を完全に失わせる結果になっている。つまり、「自分たちに負担を求める前に、もっと楽をしているやつらがいるじゃないか」というわけである。

 「構造改革」が再分配政策を積極的に位置づけず、需要と供給の過剰なアンバランスによって結果的にデフレの悪化と低賃金化を招いたことは、今や誰の目にも明らかになっている。しかし、再分配政策を怠ってきた根本的な理由は、「構造改革」における「新自由主義」に帰せられるものではない。むしろ重要なのは、90年代初めから官僚や国会議員が増税政策を幾度となく提示してきたにも関わらず、そのつどメディアを先頭にして世論が強硬に拒否反応をしめしたことにある(一方で所得税の累進率緩和はたいした批判もなく実行されたのが不思議である)。増税抜きの再分配拡大が絶対に有り得ない以上、再分配政策という選択肢がそもそも政治家の手から奪われていたのである。このような増税忌避の理由には(1)~(3)という歴史的な背景があるのであって、「新自由主義」イデオロギーの問題では決してない(オランダやデンマークが新自由主義的な論者によっても賞賛されることがあるように、そもそも新自由主義は理論上は再分配やセーフティネットの必要性を否定していない)。

 民主党は社会保障給付の拡大をはかりながら、増税を回避して公務員の人員と歳出を削減するという道を歩もうとしている。そこで予想される事態は、マニフェストで約束していた給付水準からの大幅切り下げと、さらなる「行政の無駄」の執拗な「再発見」であろう。もっとも、こうした手法はどこかで行き詰まりを見せることになるに違いない(と思いたい)。「医療費のムダが多すぎる」という、2000年代初めまで強かった声が「医療崩壊」の報道とともに完全に逆転したように、公務員の人件費削減に伴う問題が誰の目にも明らかな程度にまで深刻化すれば、流れは逆転するようになることが予想される。しかし、そこに至るまでに最も被害をこうむるのは、行政を通じた公的支援しか拠るべきところを持たない、最底辺で苦しんでいる社会的弱者であること、そのことへの想像力を今度の民主党政権と国民に強く求めたい。

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「経済成長」の構造転換

  またしつこく「経済成長」について。簡単な頭の整理として書き始めたら、ついつい長くなってしまった。

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 1973年のオイルショック以降、日本の高度成長自体は終わりを告げることになると同時に、経済成長なきインフレという深刻な事態と、同年に大幅拡充した社会保障給付の負担の問題に直面することになった。そこで田中角栄が行ったことは、地方への積極的な公共事業によって全国的な規模で雇用と消費の拡大を促し、経済成長を持続させることであった。80年代末のバブル景気にも乗る形で、当時はこうした政策が大きく問題視されることは基本的になかった。政界や財界では「日本型福祉」や「日本型経営」がもてはやされ、社会保障の問題が話題に上ることはほとんどなかった。

 しかし90年代の長期不況の中で、この手法の行き詰まりは誰の目にも明らかになった。空港や高速道路から文化施設に至るまでのインフラ建設が、景気の拡大循環を促すという幸福な時代が終わり、道路や施設は利用者がほとんどいない「ハコモノ」として大きな批判の的になり、地方の住民にとっても一部の業界以外は公共事業の恩恵を感じることがほとんど少なくなっていった。そして、国債発行と社会保障費の増大による財政赤字の問題に悩まされるようになった。

 この時点で、経済成長が社会のなかにある矛盾を全て洗い流してくれる、という幻想から完全に決別すべきであった。具体的には、増税による負担の再分配によって来るべき少子高齢化社会への対応を図ると同時に、完全正社員雇用の社会が不可能になったことを直視して、雇用保険と所得保障を拡充していくべきであった。しかし、日本が採った政策はそれとは異なる「構造改革」による経済成長路線であった。つまり、規制緩和と民営化によって新規参入を促し市場競争を激化することによって、新しい産業が生み出され経済成長ができる、それによって増大する社会保障費の財源も充実するようになるというものであった。

 しかしこの構造改革路線は、結局のところ公共事業と同じで、問題の先送りを行ったに過ぎなかった。2000年代に「経済成長」を果たしたものの、ほとんどの人にとっては実感が乏しかっただけではなく、医療・社会保障の財源問題はむしろいっそう深刻化していった。とくにデフレの中の規制緩和路線は、消費サービス業を中心とした過当競争を招き、単純労働者の低賃金化を招いた。このように、市場競争の激化と消費能力の低下が同時に襲ったために、制度上は飛躍的に自由が増大にしたはずなのにも関わらず、社会全体にはかえって閉塞感が蔓延するようになった。

 だから、経済成長論に対する国民の倦怠感それ自体は、非常に健全で自然なものである。それは、公共事業と構造改革による「経済成長」の手法が、無残に失敗したことの経験に基づいているのであり、そして「経済成長」だけでは現在直面しているさまざまな問題を解決できない、という当たり前の現実にようやく気がつきはじめただけに過ぎない。特に一部の高所得者層以外の人々にとっては、「経済成長」という正論によって、現実に生活が楽にならないことへの不満を黙らせられてきた、という思いを抱えている。経済成長路線を、道徳的あるいは文明論的に批判するような、専門家にとってはナンセンスな議論に新鮮さを覚え、それに深く共感してしまうとしても、それは決して不思議なことでもなんでもない。エコノミスト・経済学者たちは、民主党には成長戦略が欠けていると批判するが、それは経済音痴というよりも「経済成長」という言葉のネガティブなイメージのためにスローガンとして使えなくなってしまったからであり、その責任の大部分は「経済成長」という言葉を錦の御旗のように乱暴に振り回してきた彼ら自身にあると言わねば成らない。

 問題は、この経済成長への批判が「負担の再分配」という道に進む気配が一向にない(制度的には大して難しくないにも関わらず)ことである。むしろ、「経済成長」による解決法の行き詰まりのなかで、「税金の無駄遣い」というものが槍玉にあがるようになっている。天下りは90年代から批判の的になっているが、それはあくまで官民癒着の問題としてのみ批判されていた。「税金の無駄」も批判されてはいたが、それも「視察旅行」のような、明らかに緊張感を欠いた税金の遣い方をしている事例についてであった。

 しかし、今言われている「無駄」というのは、公務員宿舎が贅沢、給与水準が高い、仕事もしていないのに人員が多すぎる、そして「接待タクシー」のような微細な問題を過大に取り上げる、といったものになっている。私に言わせればほとんど「言いがかり」の部類であるだけではなく、しかも今の財源問題を解消するには、話にならないほど規模が小さすぎる。これは要するに、深刻な無駄があってそれが問題になっているというのではなく、政治家やマスコミが懸命に「無駄」がないかを虫眼鏡で探し回っているからである。しかし、政治家やマスコミがそうなってしまうのは、何より国民がそうした「税金の無駄」が大規模な形で存在していることを、実のところひそかに望んでいるからに他ならない。これだけ財源、財源ということが問題になっているのに、「増税」を口にしただけでヒステリーのような拒否反応示す人が、依然として国民の大多数というのが現状なのである。

 この背景にあるのは、日本国民の間にある根深い被害者意識である。構造改革路線が支持されたのも、要するに不況と市場競争で苦労していない既得権層を懲らしめてほしい、というルサンチマン以上のものはなかった。だから構造改革の主導者たちが「既得権層」の顔を見せはじめれば、容易にバックラッシュが起こることは自明であった。今は、官僚から企業正社員に至るまでの「既得権層」を無目的に叩くという、際限のない足の引っ張り合いになっている。「税金の無題遣い」の報道に接すると、普段は物言わぬ労働者である国民が途端に元気になるのは、この「既得権層」というわりやすい悪役の登場によって被害者感情が満たされるからに他ならない。

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 まとめると、高度経済成長の終焉の後に、社会保障費を中心とする行政コストの問題を、どう解消していくかということが、この30数年における日本政治の中心的な課題であった。これに対して、日本の政治が選択したのは「成長戦略」によるコスト問題の解消であった。つまり、70年代から80年代にかけては地方への公共投資による、90年代後半以降には規制緩和と市場競争による経済成長の持続という戦略によって、増税という国民的に不人気な政策を回避し、社会保障の財源を調達しコストを抑制することができると期待されていたのである。そして2000年代末になって、この二つの経済成長路線の無残な失敗を経験した日本国民は、「経済成長」自体への不信感を高めると同時に、社会保障費の財源問題の残された手段として、微細な税金と行政の「無駄」を過剰に問題化して削減するというアプローチに傾倒している――これが現在の段階である。

 今言われている「無駄の削減」路線は現実性がない上に、その背後にある感情が被害者意識でしかなく、公共部門の縮小が最終的に社会的弱者への再分配を困難にすることが予想されるという意味で、倫理的にも極めて問題が多いものである。しかしだからと言って、「経済成長」でこうした被害者意識を吹っ飛ばす、などというアプローチも全く話にならない。経済成長は絶対になくてはならないが、それは成長の全くない資本主義社会が明らかに不健全で不自然(つまりどこかで国民に無理な負担を強いる)であるという意味であって、「いまより飛躍的に豊かになる」とか、あるいは「国際競争に打ち勝つ」とか、そういう意味における「経済成長」は終わらせなければならない。

 社会保障制度の運営には最低限の経済成長が不可欠だが、経済成長が社会保障の財源問題を根本的に解決してくれるわけではないし、成長戦略は社会保障との連関抜きに構想できるものではない。この当たり前のことにたどり着くまでに、日本は30年もかかってしまったことがなんとも悔やまれる。

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増税を拒否するさらなる理由

増税による再分配が、負担の増大によって社会保障給付を得るということではなく、負担の再分配による、社会全体の負担感とリクスの軽減を図るものであるということを述べてきた。

しかし、それを理解したうえでも、さらに増税を拒否するいくつかの理由が提示されることがある。

一つには、行政による再分配の能力と公正さそのものに対する不信感である。今の日本で「行政の無駄遣い」と名指されるものがそうである。

二つには、再分配を拡大することが行政コストの増大を招き、それ自体が社会的な負担の増大になってしまう可能性である。

両方とも古典的な批判ではあり、一応もっともな批判ではあることは認める。しかし、こうした批判を繰り出す人には、いくつかの説明を求めたい。

まず、「行政の無駄」や行政コストがどの程度のものかを、しっかりとした形で算出することである。民主党の試算は明らかに見積もりが過大であり、また常識的に考えれば行政の無駄で毎年兆単位で増大する社会保障費を充足できるはずがない。

次に、それでは医療や介護などに対する人々の必要を、どのような形で充たしていくのかの具体的な方法を示さなければならない。最低限の生存の必要性を充足させることを、行政不信や行政コストを名目にして後回しにすることは、どんな理由であれ決して正当化できない。

その意味で「ベーシックインカム」というのは、「行政の無駄遣い」の余地をなくすと同時に、そのコストをも削減する妙案なのかもしれない。しかしそれはあくまで理論上そうなるということであって、現実にはそれでは済まない問題がたくさん出てくるだろう。

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増税政策に関する誤解

今の日本における大きな課題は、増税による再分配の拡大をいかに推し進めるかである。公務員の数、国民負担率や社会保障給付費などにおいて、日本は先進国の中で最低水準であることは、インターネットを軽く検索すれば簡単に手に入る情報であり、「医療崩壊」などの根本的な原因がここにあることは誰の目にも明らかなはずである。ところが、90年代前半までには広く語られていた増税政策が、奇妙なことに年月が経てば経つほど、社会保障の財源が厳しくなればなるほど後退してしまっている。

私の見るところ、日本では賛成・反対以前の問題として、増税政策に関する大きな誤解が二つある。

第一には、増税策を社会保障給付への対価として理解してる人が多いことである。増税というのは、医療や介護などの生存の必要性に直接かかわる資源を必要とされる分だけ配分するために、行政による再分配の裁量権を高めることに本質がある。市場は多く支払った人に多く配分するという貢献原則に拠っているので、社会保障のような必要原則の領域にはあまり馴染まない。増税策を社会保障給付への対価として理解してしまうと、税金や社会保険料を多く払う能力の乏しい低所得者は、それだけ社会保障給付を受け取る権利が少なくなるという帰結を招き、再分配の意味がなくなってしまう。

第二に、増税が負担の増大として理解されていることである。要介護者の支援や貧困者の救済など、社会の中にあるさまざまな負担の大小は、税金の増減とは関係なしに存在する。この意味で、増税は必要原則に応じて社会的な負担を再分配するための手段である。単純化して言えば、1人が100の負担を背負うよりも、100人が1の負担をそれぞれ担い、社会全体の負担感とリスク不安が軽減され、安心感が高まるということなのである。

この点で今度の民主党政権に求められるのは、行政の無駄の削減で財源を捻出するという他愛もない幻想からきっぱりと手を切ること、上述の二つの基本的な原理・原則を国民に説得し、負担を軽減するためにこそ増税を行うということを繰り返し訴えること、最大の勢力を担う与党として、そうした地道な努力に汗をかくことである。民主党には潜在的には増税の必要性をよく理解している人が多いと考えているが、そうした人たちが次第に目覚めることをひそかに期待したい。

民意は増税を拒否している限りは不可能だなどという弁明は、無責任な逃避に過ぎない。そもそも、政治家の役割は、民意を全面的に代弁するという受身的なものでは決してない。民意の代弁者だと思っている政治家がいるとしたら、それは既存の自民党による利益分配政治と五十歩百歩でしかない、ということに気づくべきである。むしろ、民意を自ら創出していくという能動性を発揮すること、そのためには民意が納得しなくても説得と対話を粘り強く繰り返すこと、こうした当たり前の民主主義を行っていくことが、今度の民主党政権には求められているのである。

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今回の総選挙の総括と今後の課題

 今回の選挙を一言で言うと、戦後60年以上、特に田中角栄以降に強化されてきた「利益分配政治」の終わりということだろうと思う。

 自民党の中には、利益分配政治と経済自由主義というイデオロギー的にも政治手法的にも全く相容れないはずの、二つの勢力が共存していた。その理由は、第一には安保・外交問題における親米路線の共有であり、第二には平等主義的な社会主義・社民主義の勢力に対して「自由」を守護するという方向性の共有である。

 小泉政権は、利益分配政治では自民党の支持を維持できないことを確信し、経済自由主義の道へと大きく舵を切った。それによる自民党内部の対立激化が、2005年の郵政解散選挙として結晶化し、利益分配政治のコアな勢力の一部は国民新党など党外に追いやられていくことになった。

 しかし、「医療崩壊」や貧困の問題が顕在化しはじめた2006年半ばごろから、経済自由主義勢力の支持も一気に急降下しはじめた。利益分配政治がもはや期待できないことにようやく気がついた地方の利害団体も、自民党を見捨て始めた。経済では「いざなぎ越え」が喧伝されていたにも関わらず、安倍内閣は参院選で大惨敗を喫することになった。
 
 福田・麻生両政権は利益分配政治を緩やかに復活させて、経済自由主義に対しては距離をおくようなったが、これがさらに党内の内部対立を生むことになった。さらに世論が社会保障や貧困の問題が第一の関心になり、ブッシュ政権のイラク政策が泥沼の迷走を続け、北朝鮮問題も完全に膠着状態になってしまったことで、安保・外交による自民党への支持も弱まっていった。自民党の凋落を見てとった経済自由主義勢力の一部は、党を見限って「みんなの党」を結成していった。

 民主党には利益分配型の政治家は、小沢一郎という偉大な例外を除けばほとんどいない。今回の民主党の歴史的な大勝は、利益分配政治の終わりを画するものであったと言える。もちろん個別的に利益分配型の政治家は生き残っているが、それが再び政治の中心的な流れになる可能性はほぼなくなったということなのである。

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 一方で民主党は、利益分配政治を終わらせ、財源を公務員の人件費を中心とする歳出削減によって調達しようとする点において、明確に小泉政権の継承者である。共産党や国民新党などが、今回の選挙を小泉政権における経済自由主義路線の総括とそこからの転換と位置づけていたのに対して、民主党は「脱官僚」と利益分配政治批判という、ある意味では小泉政権の積み残した課題を解決するという立場を打ち出していた。社会保障や貧困の問題に対する目配りがきいている点では確かに異なるようにも見えるが、小泉政権の時代にはこれらの問題がメディア上でもさほど深刻に語られていなかっただけに過ぎない。

 それに民主党が社会保障を重視しているとは言え、歳出削減を掲げている以上は、小泉政権と同様に経済・雇用政策においては規制緩和論者や財界の意向が重宝されることが予想される。そして、公共部門における深刻な財源不足・人員不足に悩まされることで、社会保障もマニフェストの水準からは大きな引き下げを行わざるを得なくなるだろう。実際、社会保障の充実を掲げて当選した今の大阪府知事は、医療費の大幅な削減を断行することに全く躊躇しなかった。
 
 しかし、歳出削減によって財源を確保するという手法のなかに、古臭いパターナリズムを濃厚に感じてしまうのは私だけだろうか。つまり、社会の負担は全て政府が担うのであって、純粋無垢で善意の国民に負担の責任が一切あるはずがない、という観念である。利益分配政治を終わらせるというのであれば、利益分配政治の中核に存在していたこういう観念からの脱却をも意味するものでなければならない。そのためには、主に増税を通じた「負担の再分配」を国民に対して正直かつ粘り強く訴えていくことこそが、いまの民主党には求められているのである。

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日本の増税嫌悪

再び濱口先生のブログから。

税金をとって再分配するということに対する敵意、わたくし流にいえば、ネオリベとリベサヨの両方に共通するこの再分配国家に対する敵意が、いかにこの30年間(話は小泉改革から始まったわけでもなければ、「改革」に狂いだした90年代から始まったわけでもない、ということを、立岩さんは丁寧な知識社会学的手法によって暴き出していきます)この国を浸し続けていたのかということが、改めて目の前に突きつけられる感じです。

(中略)

ただひたすら国家の再分配機能を敵視する「リベラル」な「市民」の感覚にここまで浸された日本社会で、その論理的帰結としての「格差」や「貧困」を糾弾する「リベラル」な「市民」たち、というこの逆説は、4年前の小泉選挙から今回の選挙まで、本質的には何も変わっていないのではないか、と、「リベラル」な「市民」の皆さんは反省してみてもいいのではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/

日本では国家の再分配機能強化が「負担増」と誤解されている。「負担を社会の中に薄く広く拡散させることによって弱めるためにこそ、増税が必要なのである」という、中学校の授業で教えれば誰でもすぐ理解できるような基本的な原理がほとんど理解されていない。理解されていないのは、要するに政治家やマスメディアがその当たり前のことを語らないからである。逆に官僚政治批判に奔ることによって、世論を増税嫌悪に誘導している。

それでもアメリカなどでは、増税嫌悪が「政府なんかに頼らなくても」という独立精神と一体化し、それが寄付やボラティア活動の活発化へと結びついているところがあるが(逆に言えばこうしたアソシエーションだけでは貧困や格差が解消できないことの実例でもある)、日本では増税嫌悪を示す人が寄付やボランティアといった行動に踏み出すことは基本的にない。

要するに日本の世論は、(1)増税で負担が下がるという理屈が全く理解できていないし、(2)アソシエーションの原理で社会保障をまかなっていくという方向にも踏み出していこうとしない。つまり、官僚と議員が無駄を削減して真面目に仕事をすれば解決するはずだ、という幻想に懸命にすがりついている。「お上意識」という言葉を使わせてもらうなら、まさに「お上意識」の最も歪んだ形であるというべきであろうこうした観念の根強さをまざまざと見せつけられたのが、まさに今回の総選挙であった。

こういう日本の社会状況の壁の厚さというものを考えると、やはりベーシックインカムというのは、あまりに飛躍し過ぎている。育児手当・進学援助のようなものであればともかく、「働く気もない」人々への無条件の分配は、世論の猛烈な抵抗感を生み出すに違いないし、それは結局ベーシックインカム政策を悲惨な形で挫折に追い込むことになるだろう。私はベーシックインカムを哲学としては原理的に支持しているので、これが今すぐにでも実現可能かのような顔をされると、逆に抵抗感をおぼえてしまうのである。

立岩氏は「分配する最小国家」という政治哲学を基盤にしているから理解はできるし、氏の議論からは多くのものを学ばせてもらっているけども、やはり税制というのは歴史認識のようなとは異なる。倫理的な正統性を踏まえつつも、最後にはあくまで政策的な現実性が重視されなければならないと思う。

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リセット思考の拒否

 

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)
Book
新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)
著者 濱口 桂一郎
販売元 岩波書店
価格(税込) ¥ 735

 労働法制に関しては完全に無知なので、ただただ一方的に勉強させてもらったという感じである。一素人として通読するのは少々疲れたが、それだけの価値のある内容を持った本である。一つあるとすれば、なぜか丁寧語で叙述されているところくらいか。

 内容についてコメントできる能力はないので、著者に底通する最も共感できる(と私が一方的に感じた)価値観について語っておきたい。それは、最終章で既存の日本型労働組合を再活用していく道を模索しているように、「リセット思考を徹底的に拒否する」ということである。ここで「リセット思考」というのは、現行の社会制度とその歴史的な文脈、世論の感情や文化意識などを抜きにして、法律学にせよ経済学にせよ、単純に論理的な一貫性のみで政策論を展開してしまうことである。

 例えば、いまの日本で「同一労働同一賃金」や「ベーシックインカム」をまじめに唱える人や、馬鹿の一つ覚えのように「北欧の社会保障制度に比べて日本は・・・」などとのたまわる人がそうである。「リセット思考」は、規制緩和論者であろうが福祉国家論者であろうが同じである。平たく言えば、「日本社会に固有の事情」というものを、まったく勘案しないどころか、それを政策を進めるにあたっての否定すべき障害としか考えてないのである。そして何かというと「抜本的な改革」を連呼するのだが、その行き着く先は結局のところ、「利権」批判か「民度」の低さを嘆くものか、いずれにせよ非生産的なものでしかない。

 残念なことに今や政治動向に圧倒的な影響のあるマスメディアでは、こういう一見歯切れのよい人たちばかりが目立ってしまっている。それどころか、現場の困難に直面して懸命にもがいている、もの言わぬ官僚の仕事の遅さに痺れを切らし、それを「仕事に無駄が多い」と都合よく解釈してバッシングを展開している。なかには「脱藩官僚」を売りにする人物もいたりするからたちが悪い。

 現実の社会をよりよいものにしたいと真摯に願っている人であれば、こうした「リセット思考」に陥ることは絶対に有り得ない。政策というのは、前に進んだ道の後に次の道を書き足す、ということでしか有り得ないからである。いきなりまったく違う場所から道を書き始めようとすれば、ほとんどの人は道に迷い、途方にくれてしまうだろうし、それは結局のところ政策を無残な失敗に終わらせることになる。

 しかし、それでも「リセット思考」の政治家や学者は、政策がうまくいかなかったことを「既得権益層」のせいにすれば、自分の責任から逃避することができる。実際閣僚経験者でも、「霞ヶ関と闘った○○日」みたいな本を出版するような人がいる。しかしそれは、その人が自らの政治理念の実現に対して、いかに不真面目な態度で臨んでいたのかを示すものでしかないように思う。

 「リセット」が絶対的に不可能である、というわけではない。ただし、それは20世紀前半に世界が経験した総力戦や革命、大恐慌のような例外的な状況においてか、あるいは一部の政治エリートが強権的に推し進めるのかのいずれかである。いずれにせよ、われわれが下からの熟慮と討議、地道な利害の調整に基づく民主主義というものを放棄すべきないとすれば、「リセット」は不可能なのである。

 もともと「保守主義」というのは、こういう「リセット思考」の拒否を眼目としているはずであるが、今日における自称保守の人たちにおける軍事・外交論は、歴史シュミレーションゲームを思わせるような「リセット思考」の極致としか言いようのないものになっている。冷戦時代には気骨のあるバランス感覚を示していたはずの日本の保守論壇は、田母神氏のような人物を無邪気に持ち上げるまでに堕落してしまった。

 内容そのものにはまったく触れることができなくて申し訳ないが、その意味で本書は保守主義的思考のもっともよい部分を継承していると言うことができる。逆に言うと、「正社員の賃金を下げれば問題は解決する」などという「リセット思考」の持ち主にとっては、最後まで我慢して読み通せないかもしれないのだが。

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驚くべきことに、早速濱口先生のブログで言及していただきました。すべての批評にくまなく言及されているのは本当のようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/

上から目線の批評を書いてしまい、実に汗顔の至りであります。「正社員の賃金を下げれば問題は解決する」というのは、言うまでもなく城繁幸氏のことを念頭に置いていたもので、ちょっと表現が不十分になってしまいました。

「不利益の再分配」という話はまったくもって同感でありまして、個人的には「経済成長」の話が重要であることはわかるんですが、どうもリアルな感じというか、それで何が解決するのかがピンとこなくて、もっと「不利益の再分配」の話のほうがリアルかつ切実に大事なんじゃないかなと思っています。それにしても今回の選挙は、いかに国民が「不利益の再分配」を嫌がっているのかを、まざまざと見せつけられたわけですが・・・。

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