« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月

日本社会の「岩盤」への皮膚感覚

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる
Book
脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる
著者 飯田泰之,雨宮処凛
販売元 自由国民社
価格(税込) ¥ 1,500

 飯田泰之氏と雨宮処凛氏という、肩書きだけで言えば実務派経済学者と貧困運動家という、従来なら絶対に交わることのなかった二者の異色対談本である。

  この対談は、前回の『経済成長って何で必要なんだろう』と同じように、飯田氏が「経済成長」に不信感を抱く人々に届く言葉を見出すための試みの一環として行われたものである。今回は飯田氏の論調が雨宮氏に必要以上に寄り添っているような気もしたが(私の誤解だったのかもしれないが)、前回の本よりも初歩的な経済学のエッセンスがコンパクトに理解できるようになっていて、個人的にはとても面白くて勉強になる本だった。まとまった批評はちゃんと読んでからということで、今回は飯田氏が雨宮氏と共有しているという、日本社会の「岩盤」への批判意識について簡単に思ったことを記してみたい。

 「岩盤」に対する批判意識については、私も飯田氏と多くのものを共有している。しかし、それを端的に自分の外部のものと突き放せて批判できてしまうのと、自分に近いところにある、あるいは自分の中にも潜在しているという自覚があるのとでは、天地の開きがある。湯浅誠氏や雨宮氏は、日本社会の「岩盤」の否定的な面を生々しく描き出す一方で、それを単純に突き放して否定したり見下したりするようなことも決してない。それは、自分が日本社会の一員として、そうした「岩盤」と遠く離れたところにいるわけではないということが、理屈というよりも現場の皮膚感覚でよくわかっているからだろうと思われる。こうした皮膚感覚の、特にネガティブな面を全面的にさらけ出した議論を展開しているのが、赤木智弘氏といえるだろう。 

 日本社会の「岩盤」を批判した第一級の人物といえば、まさに丸山眞男が思い浮かぶ。丸山はこの「岩盤」の存在を徹底的に忌み嫌い、それを西欧的な社会科学の言語で批判した一方で、強烈な戦争体験もあって、こうした「岩盤」の存在を皮膚感覚においてもよく理解していた人物であった。後の多くの「日本人論」は、議論自体は丸山よりも洗練されていたかもしれないが、やはり丸山のほうに圧倒的な魅力を感じるのは、日本社会の「岩盤」を自らのものと引き受け、それと真正面から格闘している様子が行間から滲み出ているからである。

 それに対して、飯田氏というよりも今の多くの主流派経済学系の人や、あるいは啓蒙臭の強いある種の左派系の知識人に感じる違和感は、そういう「岩盤」をあっけらかんと簡単に突き放して批判・否定してしまえる点にある。例えば、経済学者は「同一価値労働同一賃金」とか「ベーシックインカム」とかいう解決法を簡単に提示できてしまうのだが、これを実現するに当たって突き当たる「岩盤」の厚さを直視し、それを克服することの困難や絶望感を潜り抜けた上でそう言っているようには全く思えない。それどころか、困難に突き当たると「既得権益層のせい」などと責任を外部に放り投げてしまったり、素人に対して「経済を知らない」などと大上段的な説教にはしってしまったりということがしばしばある。飯田氏はさすがにそうではないが、氏の文章や語りから日本社会の「岩盤」への皮膚感覚があまり感じられないこと、そのことが氏の議論に対する私の根底的な不信感を構成していることは確かである。

 「働くもの食うべからず」的な、非正規労働者や無業者へのバッシング的な主張に対しても、どこかに「いとおしさ」のようなものが必要だと思っている。というか、私はそうした無知・無理解な物言いのなかにも、どうしても「いとおしさ」を感じてしまうのである。

----------

(9/1)

確認したらこの本では「岩盤」ではなく、「世間」になってましたので訂正します。ただし本文はそのまま「岩盤」にしておきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「パイを大きくする」という正論について

成長戦略をどうする

経済金融調査部 投資戦略部 小林卓典

8月30日の総選挙が近づき、各政党のマニュフェストが出揃ってきた。景気、雇用、消費税、医療・社会保障制度、地方分権、少子高齢化、環境問題など、各政党の政策メニューは多岐にわたるが、最重要の課題は、やはり日本経済の成長戦略である。

非正規雇用が増加し、格差是正への関心が高まるなか、所得再分配は、確かに重要な政策課題である。しかし、経済成長によってパイが拡大しない限り、パイの切り分けをいくら工夫したところで、教育、医療、介護、子育て支援、地方再生など、国民の要請に応えることは結局のところ難しい。成長戦略を欠いた所得再分配の議論は、国民負担を再配置するだけの希望に乏しいものになる。

高齢化する日本経済が、外部からのショックに対し、如何に脆弱であるかを今回の不況は示した。幸い景気は持ち直す方向にあるが、頼みとしてきた米国は過剰消費体質を修正する途上にあり、早期に活力を取り戻すことは望みがたい。代わって新興国が世界経済のけん引役となり得る期待もかかるが、縮小した世界貿易が金融危機前の水準に復元するにはかなり長い時間を要するだろう。輸出を経済成長の源泉としてきた日本の立ち位置は難しい。

人口減少下の成長戦略はかなりの難問には違いない。しかし、今ほど成長戦略が求められる時期もめったになく、仮にどの政党が政権をとったとしても、真正面から成長戦略に取り組み、停滞を打破してもらいたいものだ。
 「パイを大きくしないと再分配も難しい、小さいままだと相互の奪い合いの競争と排除が激化するだけ」という物言いをする人がよくいる。総選挙を前にして、民主党など野党が「成長戦略」に欠けていることを批判している人も多い。上の文章は、その最も典型的なものとして掲げているだけで、この人を批判したいのでは全くない。
 「パイが拡大しない限り・・・」が全くの正論であることは否定しない。しかし、「たとえ将来的にパイが大きくならなくても悲惨な事態を招かないようにするにはどうしたらいいのか」、という話は果たして考えるに値しないほど「非現実的」なのだろうか。実際、パイの縮小という事態は、かなり現実的な問題として目の前にあるのではないだろうか。GDP(あるいは世界経済)というレベルではともかくとしても、自治体レベル、家計レベルでは喫緊の問題になっており、そのなかで多くの人が頭を悩ませているという現実があるのではないだろうか。
 この現実を受け止めるための試行錯誤そのものを無意味であるかのようにみなすような態度には、正直なところまったく同意できない。飯田泰之氏が批判するコミュニティ論も、経済成長による解決というアプローチ(誤解が多いが、成長アプローチはかつての社会主義も含む)の現実上の限界から出てきた試行錯誤の一つなのであって、これに違和感があるからといって「パイが拡大しなければ・・・」と応じるというのは、何の批判にも回答にもなっていない。パイが将来的にさほど拡大しないという蓋然的な現実があるからコミュニティ論のようなものが求められているのであって、経済成長の必要性を理解できていない愚か者であるが故にコミュニティの擁護に走っているわけでは全くない。
 「パイを大きくしなければ・・・」というのは正論だが、正論とは反論の余地を許さないが故に、それを真正面から掲げると相手を抑圧してしまう危険性も持っている。一見相手を説得したように見えることはあるが、実際は単に「黙らせた」だけに過ぎないことが多い。事実、昨年の金融危機以降に反経済成長論的な物言いがマスメディア上で大っぴらに語られるようになっていることは、そのように経済学的な正論で「黙らせられてきた」と感じていた人が潜在的に多かったことを示していると言えるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

公務員批判と官僚組織の制度原理

 1990年代半ばくらいから、官僚と公務員に対する批判が高まるようになった。その中には理解できるものも多く含んでいないわけではない。

 しかし、最近の批判はあまりに常軌を逸していることは明らかである。天下りを廃止せよというのはまだしも、給与水準が高すぎるとか、楽に仕事をしているとか、公務員宿舎が贅沢だ廃止せよとか、果ては公務員の数は3割削減すべきだといった、どこに合理的な理由があるのか首を傾げたくなるような非難やバッシングが多くなっている。歳出削減の煽りで生み出された「官製ワーキングプア」の深刻な問題が徐々に報道されるようになっているが、この問題を取り上げている政治家はほとんど皆無である。

 私は、現在の官僚批判はその大部分は、官僚組織の特性そのものに由来していると考える。それは大きく言って、以下の二つの側面から説明することができる。

1)公務員は個人の意思では選択できない

 公務員は組織身分の立場で贈り物を受け取ったり、食事を奢ってもらったりすることが厳格に禁止されている。また職場の施設から備品に至るまでを私物化するような行為も決して許されない「横領」であり、ましてや公金に至っては額が数万だろうと「もってのほか」である。あらゆる組織のなかで、ここまで徹底して厳しいのは官僚組織だけであり、公務員の給与水準が云々されるのも基本的にはこの文脈である。

 勘違いしている人が多いが、官僚組織が税金で運営されているから、このように厳しくなっているのではない。みんなでお金を出し合って組織を運営し、そのお金が給料から差し引かれているという意味では、民間企業だって原理的には大した違いはない。そうではなく、官僚組織が組織の私物化を厳しく禁じているのは、一言で言えば公務員を私たちの意思や好みで選択することはできないからである。税金の使われ方が人々の怒りを掻き立てるのは、「公のお金」だからでは決してなく、個人の意思によって徴収を拒否できないからなのである。

 例えば、生命保険のように民間企業のサービスに問題があれば、脱退して別の企業に乗り換えればいいだけであり、また被害が生じたとしても加入した側の「自己責任」を問うこともできる。しかし官僚組織は、例えば厚生労働省の事務次官が「気に食わない奴」だったとしても、彼らに行政サービスを頼るしかない。住民の側は、個々の公務員と価値判断や利害関心を共有できなくても、そこから逃れる術がない(少なくとも著しく困難である)。

 個人の自由意志で官僚組織から離脱できないということは、組織の運営に恣意的な特定の価値や利害がほんの少しでも含まれているだけで、社会的な不満や反発を容易に引き起こす可能性が高いことを意味する。逆に言うと民間企業は、いくら放漫で悪質な経営を行って、労働者を不当に安い給料で働かせていても、「嫌ならやめればいいだけ」という「自己責任」の論理が働くため、個々の経営者へ向けられる不満は相対的に弱くなる。

2)公務員の仕事は結果でしか評価されない

 誤解が多いのだが、公務員の仕事というのは完全に結果でしか評価されない、という意味では成果主義的なのである。民間企業こそ結果でしか判断されないと言う人がいるかもしれないが、それは必ずしも事実ではない。たとえば、経営者がビジネス本やマスメディアなどで「崇高な」経営理念を語れば、業績はさほどでなくても、それ自体が評価されることがある。つまり、「試みそのものは面白い」「志は高かった」といった評価であり、またそうした評価によって外部からの投資を招き寄せることが実際にある。

 政治家だってそうである。「改革」の結果として出現した社会の現実が好ましくないものであっても、「改革が足りない」とか「既得権者のせい」とか言い続けることができる。有権者も、そうした「改革の姿勢」を評価して選挙に投票することがある。考えてみれば、そもそも政治家が純粋に結果で評価されることは、むしろまれであると言えるだろう。

 これに対して、公務員の仕事は、動機や姿勢、努力のプロセスではなく、現時点の社会がうまくいっているか否かでしか評価されない。例えば、年金給付の拡大が求められていた時代に設計した制度が、今になって「持続できないような制度」「人口予測が甘かった」などと批判され、そこで制度を維持するために給付を切り詰めようとすると「官僚が自分で作った制度なのに」と言われてしまう。「動機は純粋だった」「国民が求めていた」などという正当化は、全く通用しない。

 これは、公務員の仕事の「成果」を判断する客観的な評価基準が立てられないという事情も関わっている。たとえば民間企業の証券取引所における株価や、国会議員における選挙といったような外部評価の制度が、官僚組織と公務員には存在しない。第三者機関をつくることはできるが、その第三者機関を評価する第三者機関が必要になるという形で、制度のインフレを引き起こすという限界に直面せざるをえない。公務員は競争もなく、安定した地位を固守しようとするばかりであると批判されることが多いが、それは官僚組織が競争のための明確な評価基準を持つことができないということに由来している。

 以上のように、今の官僚組織と公務員に対する批判の基本的な部分は、いわば官僚制度それ自体に由来するような「お約束」によるものである。近代以降の、全世界のどの国のいつの時代の公務員を観察しても、ほとんど同様の批判は成立するはずである。もし現在言われているような批判にまともに応えようとすれば、それこそ官僚組織そのものをなくしてしまうしかないだろう。だから、90年代末以降に官僚批判が激しくなったのも、官僚それ自体の問題によるというよりも、「お約束」的な批判を一気に爆発させていった、日本社会それ自体の問題として理解する必要がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

現代日本の引き下げデモクラシー

「俺たちの負荷を減らせ」ではなく「あいつらの負荷を増やせ」

まさしくwww。それにしても、日本人の横並び主義ってなぜかいつも「ネガティブな側に横並びw」させたがるからな。「俺たちの給料を増やせ」ではなく「あいつらの給料を減らせ」。「俺たちの負荷を減らせ」ではなく「あいつらの負荷を増やせ」。「俺たちの休みを増やせ」ではなく「あいつらの休みを減らせ」みたいに。どうにも「みんなで」不幸の横並び状態をキープしてないと気が済まないみたいだなw。

マジでこのネガティブ思考はどこからやってくるんだ? クソ労働環境で連日のように搾られ続けると、みんなwが同じように苦しまないと気が済まない、誰か楽な思いをしてるヤツがいると許せない、職場の和wを乱して定時で帰るヤツが許せないって感じで自発的wな社畜思考が芽生えて来て、一番キツい側に横並びさせたがるヤツがいるのか? ああ、クソ経営者の一人勝ちはまだまだ続きそうだw。

http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-279.html

 これを読んで思ったのは、2000年代以降の政治というのは、「横並びの苦労」という言葉に集約できるのではないかということ。

 つまるところ、日本で文字通りの「新自由主義」が国民の多数派に支持されたことは、ただの一度もない。財界や一部の経済学者における市場主義的な「構造改革」は、「市場競争で苦労せず安穏としている」公務員などの「既得権層」に対するルサンチマンの感情を、一時的に代弁していただけに過ぎない。これに国家というだけで嫌悪感を示してきた、社民主義的な活動家や学者たちが、無自覚な形でこうした「構造改革」に乗っかったこともあって、日本の政治全体が「新自由主義」化したかのような風景が2000年代初頭に出来上がった。

 だから、「構造改革」が今になって手ひどいバックラッシュに遭っているのは、まったく不思議なことではない。とくに「痛みを伴う改革」を最もラディカルに唱えていた人たちが、選挙区を息子に世襲したり、大学教授の椅子におさまって平然としている現実は、国民の感情を大きく逆なですることになった。つまり、国民は彼らを「横並びで苦労する」仲間だと期待していたのに(もちろんそんな期待をかけたほうが愚かだったわけだが)、実際はそうではなかったことに深く失望してしまったわけである。かつての構造改革論者が、さらに世論の感情を逆なでするように今なおテレビで歯切れよく持論を展開している姿を見ると、彼らが「構造改革」に支持を与えていたこうした国民の心性を全く理解できていなかったことは明らかである。

 しかしこの失敗にも懲りず、大阪府の知事のように「横並びで苦労」してくれそうなリーダーを、相も変わらずも求め続けているという現実がある。日本の世論が、潜在的な志向性としては明らかに「大きな政府」なのに、政治的には「小さな政府」を支持してしまう理由も、おそらくはこの「横並びの苦労」という点に求められるように思われる。

 これは明らかに丸山眞男の言う「引き下げデモクラシー」なのだが、異なるのは引き下げのターゲットが特権的富裕層ではなく、公務員を象徴とする中間層という点にある。この解釈は難しいが、一つには、昔は富裕層の多くは特権身分によるもので、貧困層よりも「苦労していない」ということが自明だったのに対して、今は富裕層は経済の最前線にいて、生き残り競争で必死に働いているという風景が一般的である、ということが考えられる。

もし、前者が戦後の「総中流社会」を準備したとすると、後者は格差社会化をますます加速させることになるのだろうか。このような、自分で自分の首を絞め続けるような悪循環はいつ終わるんだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「社会学的啓蒙」の黄昏

日本の難点 (幻冬舎新書)
Book
日本の難点 (幻冬舎新書)
著者 宮台 真司
販売元 幻冬舎
価格(税込) ¥ 840

 前にも言及した、著名な社会学者による新書だが、アマゾンのレビューで批判的なものが多い。個々の論点はそんなに間違ったことを言っているわけではない。明らかにこれは文体の問題である。そういう意味で、宮台氏も時代の空気からズレはじめたんだなということをつくづく感じる。

 宮台氏の頭の中には、どこかに「知の最先端」の世界があって、それを知らないと「恥ずかしいこと」になっているらしい。しかし今は、こういう読者に対する無知への劣等感や強迫観念を動員して人を説得しようとする手法自体が、もはや完全に効力を失っていると考えるべきである。むしろ、高度な知の世界の憧れが完全に消失してしまったどころか、それを顕示すること自体が非常に「恥ずかしい」ことになっている。宮台氏ともあろう人が、そのことに全く気づいていないのが正直がっかりである。

 レビューで「わかった上での戦略的振る舞い」という擁護があったが、そもそも今はそういう戦略自体が一部の「宮台ファン」以外に全く理解されない、ということが全然わかっていない。フェミニスト学者で有名な上野千鶴子氏もそうだが、彼女も「わかった上での戦略的振る舞い」を繰り出す人である。しかし、こういう戦略が世の中の支配的な空気への「抗い」を意味していたような時代は、既に終わったのである。実際、宮台さんは既に中堅の社会学者だし、上野氏に至ってはもはや若手が仰ぎ見るような「重鎮」である。彼らの「戦略的振る舞い」は、それを理解できない若い世代に抑圧と疎外感を与えるだけでしかない。

 断っておくと、昔はそれがある程度は通用していた。例えば90年代半ばに流行した「援助交際」の話題では、宮台さんが挑発的な議論をすると、予期したように保守系の人が大挙して素朴な道徳論で応答してきたものである。しかし今は、アマゾンのレビューで批判的な投稿を見れば分かるとおり、そういう素朴な反応は一つもなく、ほとんどが彼の文体それ自体に対する嫌悪感の表明になっている。そして好意的なレビューのほとんどは、長年来の「宮台ファン」とおぼしき人である。彼の「戦略的振る舞い」は、もはや内輪の狭い範囲でしか通用していないことは明らかである。そして、それでも構わないという開き直りが、文章のあちこちに透けて見える。思い起こせば、上野氏の『お一人様の老後』に対する批判と、それに対する彼女の態度もこれと非常によく似ていたものがあった。

 もともと「啓蒙」というと哲学であり、経済学が担ってきたのだが、90年代以降に宮台氏や上野氏のような社会学者が担うようになっていったという経緯がある。しかし彼らの「社会学的啓蒙」の戦略は今のところ上手くいっていない。彼らの言っていることは要するに、「社会がこう変化しているのだがら、それに応じて人間の意識もこう変わらなければならない」というものである。もしこれを「社会学的啓蒙」と言うのであれば(たぶんそうではないと個人的には考えたいのだが)、黄昏に入っていることは間違いないようである。

 啓蒙主義というより「啓蒙」を前面に出すという文体自体が、知識界全体で完全に衰退し、それ以上に読者から敬遠されるようになっている。ただし、主流派経済学の「経済学的啓蒙」については、批判の洪水を浴びながら何故かしぶとく生き残っているというか、むしろ2000年代以降に元気になっている感じがするのが不思議である。

社会学ついでに。

【正論】社会学者・加藤秀俊 外国人に「働いてもらう」不思議http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090806/plc0908060356000-n3.htm

これは加藤氏がひどいと言うよりも、産経新聞はちゃんとした現役の社会学者にアクセスすべき。新聞記者が社会学を知らないのは当然だとしても、その学会の中心で何が議論されているかを知っている人か否かくらいは、見分けがつかなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「大きな政府こそが時代の流れ」まとめ

「大きな政府こそが時代の流れ」について、簡単にまとめ。

①日本が公務員数や税制の面で「小さな政府」でいられたのは、企業福祉と公共事業政策、そして赤字国債の発行によるところが大きい。これらの政策が限界を迎えているのだとすれば、社会保障は税金を主な財源として公的な機関が積極的に担っていくしかない。

②NPOやボランディア団体などの非営利民間組織は、少なくとも日本では非常に力が弱く、結局のところ行政による財政上・運営上の支援が必要となる。そしてNPOの力量を高めていくことは必要であるにしても、そうした組織にアクセスすらできない、決して例外的とは言えない社会的弱者を包摂することは困難であり、それは最終的には国家の役割となる。

③官僚政治と「大きな政府」とは基本的に次元の異なる問題であり、官僚政治批判から「小さな政府」を導き出すことは論理的に不可能である。

④そもそも日本の世論が、アメリカのように反福祉・競争原理という意味での「小さな政府」を、ほとんど望んでいない。世論が「小さな政府」を結果的に支持しているように見えるのは、官僚や族議員による「税金の無駄遣い」を減らして福祉を充実すべきだというものに過ぎず、潜在的には「大きな政府」への(さらに言えばパターナリズムへの)志向性がある。世論が望んでいない道に無理に進むべきではない、というか不可能である。

とにかく、「小さな政府は時代の流れ」などというのは、真っ赤な嘘だと断言しておきたい。ところが、政府に依存しなくても生活が成り立つ富裕層と、公務員などの「既得権層」に対するルサンチマンを募らせている「没落する中間層」(団塊世代だけではなくその子供の世代も含む)が、結果的に「小さな政府」への世論を形成してしまっている。一般世論は仕方がないにしても、知識人までがそんな世論に乗っかるようでは困ると思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

大きな政府こそが時代の流れ

小さな政府で高福祉社会

税金や社会保険費用の負担は小さい。

ただし、国は福祉のみにしかお金を使わない=国土開発や産業政策にお金を使わない。また福祉に使う場合も、直接配布を基本とすることにより公務員の数を減らし、公的な“建造物”も作らない。

=例:失業者には失業保険として現金を支給する。が、ハローワークは存在せず、失業者はリクルートなどの民間人材紹会社や求人誌で仕事を探す。公営の老人ホームや病院を作るのではなく、お金のない人に直接現金を支給する。そのお金で民間施設や民間病院にいって貰う、という方式。

国が国土開発や産業政策を手がけないので(それでも一定の経済成長やインフラ整備が行われるためには)、徹底した規制緩和や市場主義の導入、一定の割り切り(外交的・軍事的な大国になることをあきらめる。田舎と都会は便利さが異なることを受け入れるなど)が必要。

(中略)

つまり、「大きな政府」とは、「公務員が多い」「公的な建造物が多い」システムのことです。「高福祉な社会」を「大きな政府」と呼ぶわけではありません。

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090727

この文章はあくまでネタとして。ここで批判するつもりは特にない。

何度も繰り返すように、日本がOECD諸国との比較において「大きな政府」と言える側面は、あくまで「公共事業」だけである。他の指標、公務員の数や税収のGNP費などは圧倒的に「小さな政府」であることを示している。公共事業政治は、日本が「大きな政府」であるかのようなイメージを形成するのに貢献しているが、事実から言えば、公共事業政治が日本が「大きな政府」になることを阻止してきたのである。

私は小さな政府による高福祉社会などは、政治哲学上の思考実験としてはともかく、現実には基本的にありえないと考えている。ベーシックインカムは「小さな政府・高福祉社会」の基本的制度であるが、これは50年かけて築き上げてきた社会保障制度を大きく切り崩さなければ無理であるし、なにより「何もしていない奴に無償給付なんて」という、おそよ抗しがたい一般常識というものがある。だから現実に不可能なことを、まじめに議論するつもりにはなかなかなれない。ところが、自民党の一部の良識的な人たちを除くと、民主党に典型的なように、小さな政府による高福祉社会を(ベーシックインカム論抜きで)声高に唱える人が後を絶たない。

民主党の方向性は、①官僚を政治決定の場面から排除する、②公務員の人件費を減らす、③税金は一切上げないという点において、明確に今まで以上の「小さな政府」の方向性を歩んでいる。これが現実に実行された場合、①については民主党議員の実力如何というほかないが(個人的には悲観的であるが)、②については公務員の仕事が今まで以上に激務になって「官製ワーキングプア」が激増し、③は社会全体で財源不足が深刻化するようなることは、誰の目にも明らかであろう。そして、これと「福祉充実」との現実の矛盾を埋め合わせるために、結局のところ「民営化」と赤字国債発行という従来のアプローチが総動員されることになる可能性が高い。

実際、知事選では福祉と官僚批判を語っていた大阪府の橋下知事が、歳出削減を自己目的化したラディカルな「小さな政府」路線を突き進んでいるところを見るとそう思わざるを得ない。いわゆる団塊世代を中心とした「没落する中間層」が、依然として中間層としての地位を磐石に維持している(ように見える)公務員へのルサンチマンを募らせているが、彼らは潜在的には従来のような日本型福祉国家への回帰と再建を切望している。橋下や民主党の(当人もどこかでナンセンスだと理解している)「小さな政府・高福祉社会」という現実不可能な路線は、このようなルサンチマンに満ちたノスタルジーによって力を得ている。

日本の社会保障制度は、官僚の強力な主導よって(民意とはほとんど無関係に)導入されたものの、具体的には国家というよりも家族・地域、企業組織そして公共事業などが担ってきたという歴史がある。ヨーロッパの福祉国家がモラルハザードの問題で悩まされていた1980年代には、むしろ「日本型福祉」がもてはやされていた時代もあった。しかし90年代末になると、長期不況と少子高齢化のなかで、企業や公共事業による福祉に依存し続けることが既に非現実的になった。

そこで日本は、西欧・北欧のような消費税による国家の再配分機能の強化か、それともアメリカのように規制緩和と民営化による行政のスリム化と歳入の増大を期待するのかという二つの選択肢のなかで、後者を選択した。もともと自民党が親米政権であったというだけではなく、開発主義国家体制における企業と公共事業による福祉はアメリカ型と親和性があり、何より社会保障制度を官僚によって上から与えられた経験しか持たない一般の国民が増税に対する激しい拒否反応を示したからである。

しかし、規制緩和と行政スリム化路線は、今のところあまり上手く行っていないどころか、財政の健全化にほとんど寄与していないというのがアメリカの経験であり、またこの10年の日本の経験であった。医療や介護というのは顧客を無限に増やせないし、貧困者も相手にしなければならない以上、民間企業に委ねるのは不適切という以上に酷なのである。「改革をしなければもっと悪くなった」としか言えていない「構造改革」論者のよく語る弁明が、いみじくもこの政策に根本的な限界を孕んでいたことを示している。そもそも一般の国民も、いわゆる「新自由主義」路線を支持していたわけではなく、官僚などの「既得権層」が「自ら血を流す」ことを求めていたに過ぎない。

だとすれば、国家の再配分機能の強化という道を歩む以外に、もはや選択肢はないはずだろう。「小さな政府は時代の流れ」と言う人がいるのだが、少なくとも上の②と③については「大きな政府こそが時代の流れ」だと断言しておきたい。これは官僚政治批判と矛盾するものでは決してないし、むしろその条件ですらあるとここでは言っておきたい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »