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あえて反経済成長論を語る

 最初の話題は「経済成長」について。

 昨年の金融危機以降、資本主義社会であれば不可避であるはずの「経済成長」という概念そのものへの懐疑や批判が高まっている。特に、2000年代半ばに「戦後最長の景気拡大」を実現したことは、かえって国民の中に「経済成長」が社会の問題を何一つ解決しないという幻滅感を広めることになった。しかもメディア上で「経済成長」の必要性を語るエコノミストが、小泉政権と積極的に関わった経歴をもつ人物であったりするために、ますますこの言葉に対する世論の反感が強まっている側面がある。

 こういう現状に対する危機感から、経済成長の必要性をもう一度再認識しようという試みも出始めている。それが若手経済学者の飯田泰之氏を中心とした『経済成長はなんで必要なんだろう?』(光文社)という対談本である。それまで経済学の本というと、専門家同士で専門用語を駆使して、いかにして金融危機を脱するかのようなテクニカルな話をすることが多かった。私を含めた専門外の素人読者にとっては、経済書は読みやすいものではないことはもちろん、経済学者の常識や論理が反省されることもなく、一人歩きしているような印象に違和感をおぼえてしまう。たとえば社会学では、社会を観察・分析している専門家自身も社会から観察されているという反省的な視点を織り込むことが自明なのだが、経済学者は自らが経済システムを超然と観察できているかのように振舞いがちで、だからその議論の中身以前に、言っていることが浅薄で一面的に見えてしまうところがある。

この飯田氏の対談本は、対談相手に湯浅誠氏や赤木智弘氏などが含まれているように、経済学者が専門外(とくに若者貧困問題)の人を説得するための論理や論法を探り出そうという動機に基づいている。飯田氏が経済に無知な人を啓蒙してやろうというのではなく(若干感じる場面もなくはなかったが)、経済学者が往々にして社会の空気に鈍感なことに対する反省を込めてつくられた本である。一人の経済学の素人として、経済学的な正論を乱暴に振りかざすような議論に反発しつつも、道徳的な経済成長批判にも嘘くささや物足りなさをも感じていたので、ようやく自分が読みたかったような経済書が出てきたという思いである。

 この本はもう少ししっかり読んでからコメントしたいので、まず私の「経済成長」に対するスタンスを簡単に述べておく。

 私はおそらく、飯田氏のような人からすると反経済成長論者に分類されるかもしれない。

 それは第一に、経済成長そのものの必要性と不可避性は全面的に認めるものの、医療・介護や雇用・貧困などの問題が、すべて経済成長を前提にしなければ解決しないという物言いに反対するのである。むしろまずは、税制や社会保障制度を組み替えることによって、今ある手持ちの資産や財源を効率的に再配分することを優先すべきだと考えるのである。日本では再配分の結果、所得格差が拡大しているとという指摘があるが、だとすれば経済成長の前にそういう制度的な部分に手をつける余地がかなり多いということを意味する。

 第二に、私が反経済成長論者であるというのは、経済成長つまりGDPの増大を単なる手段としてしか見なしていないことである。手段という限りで経済成長の重要性を積極的に認めるものの、経済成長自体が社会の目標であるかのようには絶対に語らないことである。というのは、経済成長自体が社会の目標としてみなされると、マクロ経済的には経済成長に反する行動を取る人たちの意思を、それに益する人たちの意思よりも価値を低く扱ってしまうことになりがちだからである。そのような社会は、どう弁解しようと自由で公正な社会とは言えない。

もちろん、飯田氏も本書でそうした主張をしているわけではないが、この危うさが感じられることがときどきある。たとえば飯田氏は、経済基盤の弱い田舎に住み続ける人たちを支援することは経済的に非効率であり、その権利を認めるとしても費用便益の分析を経済の専門家が示した上で、後は政治的に選択させたほうがいいと主張している。

田舎に住み続けたいし経済的にも保証されたいという感情と欲求のために日本国民が年収の1割を提供すべきか,これは経済的結論ではなく僕の価値観ですが,答えはノーなんじゃないでしょうか.

http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/

この部分は、この本のなかでは飯田氏と全面的に対立する部分である。まず費用便益を政治的に選択させるというシチュエーションが登場した場合、何が起こるかを想像してみればいい。地方の寒村に住んでいる人が、「国の財政を傷つけてまで故郷にこだわるわがままな人」というイメージで見られることになるのは、火を見るよりも明らかではないだろうか。地方に住み続ける人の理由の大部分は、「地元が好き」という以上に「ほかに行くところがない」というものであろう。そういう人々に「生きているのが申し訳ない」と思わせても構わないというのが、果たして経済政策なのだろうか。ここで表明されている価値観の危険性とおぞましさは、適用範囲を世界大に拡大し、地方をアフリカ諸国などに置き換えてみればよくわかる。

こういう問題への感性があるという点において、私は主流派経済学者よりも、左派系・保守系の経済学者のほうを基本的に信用している。もちろん、飯田氏が夙に批判するように左派系・保守系の経済学者の議論は、実務的にはあまり(少なくとも直接的には)役に立たない。だから、主流派経済学者でありながら社会問題に広い目配りを怠らない飯田氏に期待するところは大きいのだが、その意味でも上述の発言は問題である。それは、まさに湯浅氏の言う「単純に誰も話を聞いてくれなくなる」ものであって、そしてこういう無神経な発言をメディア上で撒き散らしたことによって、経済学者が世論から敬遠されていったことは肝に銘じておくべきだろう。

 というわけで、これからも経済成長という言葉への不信感は基本的には変わらないと思うのだが、その上で経済成長の重要性を素人なりに理解していきたいと考えている。次回は、飯田氏と湯浅氏の対談を少しじっくり読んでコメントしたいと思う。

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コメント

なかなか容易ではないなあと思うのは、
”地方に住み続ける人の理由の大部分は、「地元が好き」という以上に「ほかに行くところがない」というものであろう。そういう人々に「生きているのが申し訳ない」と思わせても構わないというのが、果たして経済政策なのだろうか。”
という問いそれ自体が、都市に住む貧しい若者(10代~30代)から搾り取った金を地方民に与えるという行動を情緒的な面で正当化させてしまうということです。

ベン・バーナンキ氏が言うように「フリーランチは無い」のです。
それなのに、フリーランチが無いなんてけしからんと思ってしまうのが社会学派や左派活動家であって、本筋の経済学者と対立するのはこの点なんですね。
これを科学の問題に置き換えるといかにおかしいかが分ります。
前者は永久機関が無いなんてけしからんと言い、後者は永久機関なんてありえないんだと言っている。その上前者は人の情と熱意は永久機関を実現せしめるんだとすら主張してしまう。

リフレ派の飯田泰之氏は、インフレのマイナス点として常に資産が減損するのと貯蓄のインセンティブが低下することを言っていたと思いますが(別の本かブログだったかな?)、それらの代償としての資金流動性の確保なので、一見言いこと尽くめに見えるリフレ政策も、やはり「フリーランチは無い」のです。
おそらく飯田泰は、フリーランチを食っているのにフリーランチをフリーランチと理解していない人間がいることを、そして都市の貧者に対し、お前達がカップラーメンを食う代わりに地方民はフリーランチを食えていると表明しないことについて、腹に据えかねているんだと思いますよ。

投稿: WATERMAN | 2009年8月29日 (土) 07時10分

コメントありがとうございます。バーナンキ氏については何も知らないのですが、世の中には「フリーランチ」を食べることによってしか生きていけない人が一定数いると思うんですよね。そういう人たちの生を否定しない社会がいいとするのであれば、「フリーランチ」自体を罪悪視することは絶対にできない、というのが私の立場です。そもそも、それが「フリーランチ」だと誰が決めるのか、という問題もあると思います。地方の寒村に住んでいる人を「フリーランチを食っている」と言ってもよい、ということが政治的に正当化されてしまうと、都市部に住む人を含む、多くの社会的弱者がそのように名指されてしまうことになるでしょう。それに飯田氏も都市/地方という対立軸では物事を考えていないと思います。私もそれに大きく賛成です。

投稿: にょしん | 2009年8月31日 (月) 16時32分

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