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小さな国家、大きな社会

今日(7月22日)の朝日新聞に宮台真司・雨宮処凛・中島岳志の三氏の鼎談が載っていた。

鼎談の中でとくに気になったのは、宮台氏が貧困運動家たちが国の支援に依存しようとしていることを批判して、「小さな国家」「大きな社会」という理念を語っていたことである。雨宮氏がそれに対して、小さな政府の名の下に家族や個人の責任が過剰になっている現実があることを指摘していたが、この論点については全く雨宮氏の言うとおりであろう。「小さな国家」「大きな社会」は理念としては間違いでないにしても、現時点でそれを言えば、現実に行政しか頼れる場所がない弱者がさらに悲惨な状況に追い込まれることは目に見えているからである。

そして、これは明確に言っておかなければならないが、原理的に言っても弱者を救済する究極の機関は国家なのである。弱者の救済は、NPOのような自発的結社ではどうしても限界がある。財政上・権限上の限界という以前に、NPOにアクセスするための情報や能力すら持っていない、決して例外的とは言えない社会的弱者を包摂することは不可能だからである。それにNPOが貧困の解消を理念として高く掲げていようと、それが高学歴で富裕層の人たちで運営されていれば、それだけで「フリーター」「ワーキングプア」にとって近づきがたいものになってしまう。NPO大国・寄付大国のアメリカで、貧困がまったく解消されていないのは決して不思議なことではない。

それに対して、国家は同じ「国民」という理由だけで、こうした弱者を一律に救済の対象にする。ナショナルな友愛の観点からそうするのでは決してなく、官僚主義的な支配の合理性からそうしているのである。官僚からすれば、行政の制度的な網の目から零れ落ちる貧困者が増えて社会の把握能力が低下してしまうことは、国家の支配の正統性に関わってくるからである。NPOのような自発的結社の場合、恒常的に寄付を行うだけの余裕のある富裕層でメンバーが固まってしまう、というジレンマから抜け出すことがどうしても難しい。

そもそも、「大きな社会」のための活動をしている人たちが今の日本にいるとすれば、貧困者のためのNPOの支援組織を全国に拡大しようとしている、貧困運動の活動者たちであろう。湯浅誠氏は「溜め」という言葉を繰り返し用いるが、これは言わば有形無形の「手助け」が社会の中に薄く広く遍在しているという、「大きな社会」の重要性を訴えるものに他ならない。国の支援を要求することは、そうした「大きな社会」づくりの一環なのであって、国家パターナリズムであるかのように見なすべきではない(国家パターナリズムは貧困運動以外にも普遍的に見られるし、とりわけ団塊世代の旧中間層に顕著である)。

「小さな国家」という場合、①歳出を減らすのか、②行政人員を減らすのか、③行政の介入・指導を減らすのかで意味がかなり異なってくるのだが、世間では往々にして混同されている。だから、最初は③に対する改革だったはずのものが、現実には①や②が中心となって推し進められてしまい、③については中途半端に終わるということが少なくない。宮台氏がどのレベルで「小さい」と言っているのかも、いまひとつ明確でない。ちなみに、同じ社会学者で「分配する最小国家」を唱える立岩真也氏は、完全に③のレベルでしか言っていない。

社会学者としてどうかという点はさて措き、論壇人としての宮台氏はやはり劣化していると思わざるを得ない。『日本の難点』(幻灯社新書)もそうだが、一つ一つの議論はともかくとして、言葉が宙に浮いている感じが否めない。知名度の高い学者が初めて出した新書ということで売れてはいるようだが、なんと言うのか、面白くないというより真面目に読めなかった。宮台氏が変わったというより、時代が変わったと言うべきなんだろうが。

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