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2009年7月

開発主義国家としての「大きな政府」

前回の続き。

 前回、日本が「小さな政府」であることを述べたが、ではアメリカやメキシコに似ている社会なのかと言われれば、やはりそうではないことは明らかだろう。逆に、日本は体感的には「大きな政府」だと思っている人は多いはずである。この理由についてここで簡単に論じておきたい。

 その答えを先に言ってしまうと、高度成長期以来の「開発主義国家」と呼ばれるものの遺産に基づくものによるものである。韓国も中国も、税収の再配分の面ではかなりの「小さな政府」である一方で、国民は体感的には「大きな政府」というイメージを強固に持っていると考えられる。これは後発型の経済成長、特に「開発独裁」体制をとってきた国に共通している問題ではある。

 日本の開発主義国家体制の第一の側面は、官僚主導型であるという点である。他の先進国では、福祉国家と社会保障制度は労働者や農家の利害を代表する左派政党を通じて推進されてきたが、日本では1950年代末以降、西欧型福祉国家へのキャッチアップを目標として、国家官僚の主導の下で行われてきた。当時の保守政党の関心は安全保障問題であり、社会主義への対抗であって、社会保障の問題には元来無関心であった。社会保障制度の構築は、保守政治家にとってはあくまで社会主義への対抗軸として支持したに過ぎず、むしろ当初は左派勢力のほうがこれに批判的であったのである。だから多くの国民にとって、社会保障給付は自ら勝ち取ったという意識は全くなく、ほとんど「天から降りてきた」ものであった。

 第二の側面は、公共事業政治である。開発主義国家体制は、本当なら高度成長期が終焉した1970年代半ばが曲がり角であり、実際、他の先進諸国の多くはこの時期を境に増税による公的な社会保障制度の充実という「大きな政府」への道を選択していくことになるが、日本でそうならなかった理由の一つは、地方への公共事業の展開によって雇用と需要を創出し続け、失業問題を緩和したことによる。公共事業というと「無駄」や「利権」という冠詞がつくくらいだが、1980年代までは後進地域への再配分政策として、それなりに上手く行っていたことは否定できない。

 そして第三には、企業福祉である。日本の企業組織はよく言われるように、労働者を専門職業人としてではなく、新卒一括採用など企業組織の正式なメンバー=「会社員」にして、社内における「先輩/後輩」の上下関係をスムーズに作り出して統率をはかるという人事管理方式をとっている。「規制緩和」が声高に叫ばれた時代にも、この方法はほとんど改革されることがなかったという意味で、非常に強固なものがある。そして企業は、社員のさまざまな公的保険や年金をある程度まで肩代わりするという形で、日本の社会保障制度のかなりの部分を担ってきた。こうした組織のあり方は、もともとは官僚組織の模倣に由来するものであり、この意味で日本がその現実以上に「官僚社会」であるというイメージを創り出している。

 以上のような、「官僚主導」「公共事業」「企業福祉」によるセーフティネットがそれなりに分厚かったことが、日本が統計上・制度上は「小さな政府」でありながら、体感的には「大きな政府」である現実をつくりだしてきた。今の日本では、大阪府知事や民主党に典型的であるように、福祉の充実を掲げながら税制や行政規模の面では「小さな政府」を目指すという方向性が、特に矛盾も感じられることもなく大きな支持を得るという構図になっている。これは必ずしも不思議なことではなく、「官僚主導」「公共事業」「企業福祉」という旧来の開発主義国家体制が、統計上・制度上は「小さな政府」でも分厚いセーフティネットを構築してきたという「成功体験」に基づいているのである。

 そして、この成功体験を強く共有している高齢世代の世論が、人口規模や投票率の面において政治的に反映されやすいという構造がある。そのため、セーフティネットの再建という課題に対して、増税による行政などの公共部門の体力強化という標準的な方法が、理屈としては理解できても実感として納得できないという結果になるのである。 

 たぶんまだ続きます。

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「大きな政府」は利権政治につながるという理解について

「小さい政府は票にならない」からだ。

それは普遍的な事実だ。あまりに論理的な帰結だ。

小さい政府は、誰にも利権を分配できない。小さい政府とはコントロールできる資金量が“小さい”政府、という意味だ。その定義からして、利権を生みにくい。

そして、利権を生みにくいということはすなわち、票にならないということなのだ。

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090726

謎のアルファブロガー「ちきりん」氏の文章。この人を批判したいのではなく、この文章のように、「大きな政府」になることをやたらに懸念している人への雑感である。「大きな政府」を懸念しているのは特にエコノミスト系の人に少なくないのだが、いったい何を懸念しているのか正直よくわからないことが多い。「大きな政府」を公務員の数やGNP比における税収の割合から定義できるとすると、日本は世界の中でも明確に「小さな政府」のカテゴリーに属しており、「大きな政府」への懸念は枯れ尾花に過剰に怯えているとしか言いようがないだろう(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5100.html参照)。

この文章はひどい間違いだらけなのだが、なかでも最たるものは「大きな政府」を利権政治と同一視していることである。確かに、官僚主導型の行政や公共事業による再配分政治は、それはそれとして改革しなければならない問題ではある。しかし強調しなければならないのは、そのことと「大きな政府」を批判することはイコールでは決してないことである。むしろ、官僚政治や公共事業政治は、日本に北欧のような高い税負担による分厚いセーフティネットの整備という「大きな政府」への道を歩ませなかった要因ですらある。つまり官僚の激務で国民に全力で奉仕し、政治家が公共事業で積極的に雇用を創出しさえすれば、わざわざ増税をしてまでセーフティネットの構築する必要はない、というわけなのである。

上の文章に限らず「大きな政府」批判者は、公共事業政治と民営化・規制緩和の構造改革路線が緩やかに共闘してきた歴史を完全に無視している。地方への利益誘導を図ってきた政治家は、だいたいにおいて「福祉国家」を家族や地域の自立性に介入するものとして批判的であったのであり、そのように構造改革派とは「大きな政府」への嫌悪感というものを本質的に共有していたのである。イデオロギーや政策の面ではほとんど真っ向から対立しているはずの、新自由主義型の政治家と地方利益誘導型の政治家が、同じ自民党の中で共存しているということの意味が全くわかっていない人が多いように思う。

要は、公共事業型政治というのは、税収や行政の規模の面では「小さな政府」のままで、所得の再配分を行うための方法として理解することができる。利権政治を通じた再配分というのは「小さな政府」であるが故に必要なのであり、本当に「大きな政府」であれば再配分は行政機関が粛々とやるだけで、政治家が個別的に交渉して引っ張ってくるようなものではないからである。「小さな政府」の代表アメリカなどは、一民間企業の社長が政治の要職に抜擢されたりなど、まさにトクヴィル以来言われてきたような露骨な利権政治社会であり、ただそれが合法的かつオープンに行われているだけに過ぎない。

「大きな政府」と利権政治の同一視は、「ちきりん」氏だけではなく、「大きな政府」に批判的な人に広く見られる理解である。私の理解はこれとは完全に逆で、むしろ「小さな政府」だからこそ利権政治が再配分機能を担うものとして必要になるということである。だから利権政治を改革しようとするなら、旧来の再配分機能に配慮しつつ、増税と行政機関の体力強化による「大きな政府」に(北欧は無理にしてもフランスやドイツの水準に近づく程度に)ゆっくりと移行してべきだというのが私の考えである。

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小さな国家、大きな社会

今日(7月22日)の朝日新聞に宮台真司・雨宮処凛・中島岳志の三氏の鼎談が載っていた。

鼎談の中でとくに気になったのは、宮台氏が貧困運動家たちが国の支援に依存しようとしていることを批判して、「小さな国家」「大きな社会」という理念を語っていたことである。雨宮氏がそれに対して、小さな政府の名の下に家族や個人の責任が過剰になっている現実があることを指摘していたが、この論点については全く雨宮氏の言うとおりであろう。「小さな国家」「大きな社会」は理念としては間違いでないにしても、現時点でそれを言えば、現実に行政しか頼れる場所がない弱者がさらに悲惨な状況に追い込まれることは目に見えているからである。

そして、これは明確に言っておかなければならないが、原理的に言っても弱者を救済する究極の機関は国家なのである。弱者の救済は、NPOのような自発的結社ではどうしても限界がある。財政上・権限上の限界という以前に、NPOにアクセスするための情報や能力すら持っていない、決して例外的とは言えない社会的弱者を包摂することは不可能だからである。それにNPOが貧困の解消を理念として高く掲げていようと、それが高学歴で富裕層の人たちで運営されていれば、それだけで「フリーター」「ワーキングプア」にとって近づきがたいものになってしまう。NPO大国・寄付大国のアメリカで、貧困がまったく解消されていないのは決して不思議なことではない。

それに対して、国家は同じ「国民」という理由だけで、こうした弱者を一律に救済の対象にする。ナショナルな友愛の観点からそうするのでは決してなく、官僚主義的な支配の合理性からそうしているのである。官僚からすれば、行政の制度的な網の目から零れ落ちる貧困者が増えて社会の把握能力が低下してしまうことは、国家の支配の正統性に関わってくるからである。NPOのような自発的結社の場合、恒常的に寄付を行うだけの余裕のある富裕層でメンバーが固まってしまう、というジレンマから抜け出すことがどうしても難しい。

そもそも、「大きな社会」のための活動をしている人たちが今の日本にいるとすれば、貧困者のためのNPOの支援組織を全国に拡大しようとしている、貧困運動の活動者たちであろう。湯浅誠氏は「溜め」という言葉を繰り返し用いるが、これは言わば有形無形の「手助け」が社会の中に薄く広く遍在しているという、「大きな社会」の重要性を訴えるものに他ならない。国の支援を要求することは、そうした「大きな社会」づくりの一環なのであって、国家パターナリズムであるかのように見なすべきではない(国家パターナリズムは貧困運動以外にも普遍的に見られるし、とりわけ団塊世代の旧中間層に顕著である)。

「小さな国家」という場合、①歳出を減らすのか、②行政人員を減らすのか、③行政の介入・指導を減らすのかで意味がかなり異なってくるのだが、世間では往々にして混同されている。だから、最初は③に対する改革だったはずのものが、現実には①や②が中心となって推し進められてしまい、③については中途半端に終わるということが少なくない。宮台氏がどのレベルで「小さい」と言っているのかも、いまひとつ明確でない。ちなみに、同じ社会学者で「分配する最小国家」を唱える立岩真也氏は、完全に③のレベルでしか言っていない。

社会学者としてどうかという点はさて措き、論壇人としての宮台氏はやはり劣化していると思わざるを得ない。『日本の難点』(幻灯社新書)もそうだが、一つ一つの議論はともかくとして、言葉が宙に浮いている感じが否めない。知名度の高い学者が初めて出した新書ということで売れてはいるようだが、なんと言うのか、面白くないというより真面目に読めなかった。宮台氏が変わったというより、時代が変わったと言うべきなんだろうが。

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日本人は本当に「時間貧乏」なのか

【人生戦略の立て方】経済評論家・勝間和代 日本人は「時間貧乏」

私たちが、よりよい人生を過ごすため、人生には戦略が必要です。戦略とは、目標達成のために総合的な施策を通じて、資源を効果的に配分・運用する技術です。ここでいう資源とは主に、ヒト・モノ・カネ、そして情報ですが、「ヒトの資源」とは具体的に何を指すのでしょうか? それは優れた人材やその人が持っているスキルを指し、その人たちがどれだけの時間を目標達成のために使う必要があるかという、人の労働力・時間配分を意味するのです。

 常々、私が感じるのは、日本人が全体的に、自分に対しても他人に対しても、時間の使い方に対して無頓着な傾向があり、それが日本全体の「時間貧乏」を招いているということです。日本は金銭的には他の国に比べて貧乏ではないかもしれませんが、労働時間が長く、自由時間が短い、「時間貧乏」ではないでしょうか。

http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/090720/sty0907200325000-n1.htm

勝間氏は、精神論が多いビジネスエリートの中ではバランスのとれている良識的な人だと思っているが、こういう記事を読むと、やはり所詮は「ビジネス書」の世界の人だと感じざるを得ない。

日本人の労働時間の異常な長さは、「時間貧乏」だからではない。昔ながらの日本社会の労働慣行や煩雑な習慣も確かにあるとは考えるが、それに人件費の削減競争があまりに激しくなったことがプラスされたという点に問題を求めるべきである。とりわけ、ファミレスやファストフードなどの外食産業で働いてきた人であればわかると思うが、こういう店の店長たちは、時給に換算するとアルバイト以下の水準の賃金で、一日12時間以上働くことがほとんど当たり前になっている。勝間氏は、まさか日本人が「時間貧乏」だからそうなっている、とでも言うのだろうか。

長期不況と賃金上昇の鈍化によって日本社会の需要全体が伸びない中、民営化と規制緩和などの「構造改革」の流れの中で新規参入ばかりが増え、ファミレスやコンビニエンスストアなどは明らかに飽和状態になった。競争に打ち勝つためには、他社よりも魅力的な商品を提供するという正攻法だけでは、明らかに限界になっていた。そこで起こったのが人件費削減の競争であると理解することができる。

生産性が低いというのは、例えば一時間に数人しか客がこないのに深夜3時にコンビニエンスストアを延々と営業している、という風景を思い出せば十分である。コンビニ本部は、少しでも利益を上げたいがために、こうした過酷な労働を「契約」の名の下に強制している。「時間貧乏」を創り出している責任を求めるとすれば、しばしば「時間を有効に使え」と叱咤している企業家自身にあると言わなければならない。

「時間貧乏」という言葉が当てはまる場所があるとしても、勝間氏の所属するビジネスエリートの世界だけである。そして、そこにもおそらく人件費削減競争の力学が働いており、一部の優秀なビジネスマンが有り得ないような膨大な量の業務を超人的にこなしているという風景がある。実際、勝間氏がかつてまさにそうだったわけである。

生産性を向上させたいのであれば、いま起っている人件費の削減競争を緩和することが先決である。そのためには過酷な長時間労働を不必要にするような、公的な生活保障の仕組みを厚くしていくしかない。つまらないようだが、この当たり前のことでさえ世論になりそうな気配が全くないのが現状である。

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「経済成長論」に反対する理由

 再び飯田泰之氏ほか『経済成長って何で必要なんだろう?』について。

 最初に断っておくと、私は経済成長自体に反対しているわけでは決してない。資本主義社会である以上は、経済成長が必要であることは当たり前のことである。さまざまな社会問題の解決が、経済成長があることで格段に容易になることも、全く異論なくその通りであると考える。ただ、「経済成長」を声高に掲げる議論に対して、つまり「経済成長論」に対して懐疑的なのである。

 本書のなかで反経済成長論がところどころ批判されていて、確かにそういう説教臭い無内容な議論が多いことは間違いないのだが、私はもう少し違う視点から反経済成長論を考えている。私が何故経済成長論に反対するのかを、簡単に述べてみたい。

(1)「経済成長」という言葉の歴史的・政治的な文脈

 言葉には、それが背負っている歴史的・政治的な文脈というものがある。他の国では当たり前に語られる「愛国心」が、日本では専ら右派が語るフレーズになっているのは、そういう文脈を背負っているからである。この文脈を無視したまま「愛国心は世界では当たり前に尊重されている」などと言っても、それはナンセンスである。

 「経済成長」も「愛国心」ほどではないしても、それに近いところがある。つまり、いま「経済成長」という言葉を掲げることは、「構造改革の継続」つまり「規制緩和による競争激化」というイメージと一体的なものになっており、そして構造改革以降に将来の生活不安はほとんど解消されていない(むしろ拡大している)という実感を多くの人が持っている。こうした歴史的文脈を無視したまま、「経済成長」の重要性を声高に語っても、むしろ誤解を増幅させるだけでしかないだろう。少なくとも、反経済成長論を経済学的な正論で頭ごなしに批判するのではなく、そうした反経済成長論が受容する人々の不満やルサンチマンへの理解を示した上で、そうした心情を汲み取る形で「経済成長」という言葉を再構成していくような努力が必要がある。

(2)「経済成長」の質をあまり問題にしていない

 本書を読んでいると、「経済成長」であれば中身は何でもよいのかという疑問が残ってしまう。旺盛な消費が莫大な借金で維持されてきたという、これまでのアメリカのやり方のように、「不適切な経済成長」というものも存在していると思うのである。例えば国際投資ファンドが、日本の企業を次々と高額で買収すればそれでGDPは確かに上昇するのかもしれないが、投機によるGDPの上昇は健全な経済成長の仕方とはやはり言えないだろう。本書でも言及されていたが、1930年代半ばには日本は世界に先駆けて景気回復を果たしていたのにも関わらず総力戦に突入した事実は、経済成長それ自体が人々の社会的な不満やルサンチマンを解消するわけではないことを示している。この根本的に重要な問題について、本書ではあまり触れていない。

(3)「経済成長」に反する人々の存在を抑圧する危険性

 先にも書いたように、寒村に住んでいる田舎の人々の存在が財政的に非効率であり、経済成長の阻害要因になるということは、証明するまでもないくらい明白なことだろう。「経済成長」の必要性を公の場で大きく語られ、それが世論にも認知されていくということは、こうした「経済成長に反する」人々の存在が政治的・社会的に抑圧される可能性が高まるということである。ちなみに私は、地方から都会に人々が出て行ってしまうこと自体は、ある意味で仕方がないことだと考えており、公共事業を通じた地方経済の活性化という方法には基本的には否定的である。私の問題意識は、地方に住み続けている人々への公的な生活保障が、「経済成長」の名の下に「無駄」として扱われてしまうこと、そしてこうした発想が、とくに障害者などの社会的弱者一般にも適用されてしまうことへの危険性を危惧するのである。

 この本では「合成の誤謬」の問題について語られていたが、本書ではこの問題に対する結論として、「だからマクロな経済合理性が大事なんだ」という以上のものが出ていないような気がする。やはり私は、個々人の合理性を勘案しないマクロ経済政策は、結局のところ様々な障害にぶつかって失敗するとしか思えないのである。飯田氏は「経済学っぽい考え方」を日本人に浸透させることでこれを克服しようと意気込んでいるらしいのだが、私はこうした啓蒙主義的な戦略には懐疑的である。というのも、「ジェンダーフリー」バッシングに見られるように、啓蒙主義は往々にしてかえって逆効果になることのほうが多いからである。

経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)

著者:芹沢 一也,荻上 チキ,飯田 泰之,岡田 靖,赤木 智弘,湯浅 誠

経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)

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「切羽詰らないと人は真面目に働かない」という発想について

民主党が最低賃金千円をマニフェストに掲げていることに対して、この非現実性が批判されている。私は最低賃金より雇用保険と生活保護、職業訓練の拡充などのセーフティネット整備のほうが先だと考えているが、最低賃金自給千円というのはOECD平均で見ても決して高いものではなく(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1890.html)、すくなくとも非常識なマニフェストでは決してない(民主党のマニフェストで非常識なものはほかにたくさんある)。労働法の専門家である濱口桂一郎氏がこの問題について、堀江貴文を批判している。

ホリエモン氏のたまわく、

http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10298690710.html(民主「最低賃金千円」、マニフェストに明記へ)

>隔世の感がありますな。私がライブドアの起業のきっかけとなった、コンピュータ会社でのアルバイトの最初の時給が900円でした。なんだか、最低賃金がどんどん高くなって生活保護支給金も高くなったら、がんばって働いて生活水準を上げていこうとかそういうモチベーションは、なくなるんじゃないのかなあ。

(中略)

いやまあ、最賃1000円というのは、今すぐという話としてはいささか無茶ですが、それは中小零細企業の支払い能力との関係で漸進的に行かなければいけないというリアリズムな話であって、最低賃金を上げれば上げるほど働く意欲がなくなるなんてトンデモ理論を振り回すおっさんがいるとは思わなかったですね。

ホリエモン氏にとっては、働かないで生活保護で生活する方が豊かな生活ができて、フルタイム精一杯働いても生活保護の水準にも達しないという現状の方が、働く人の方が働かない人よりもたくさん稼げる社会よりも、人々の働く意欲をかき立てるんだそうです。なんと倒錯した素晴らしき世界でしょうか。http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-46db.html

濱口氏に反対するわけではないが、切羽詰まらないと人は必死に働かない、というよく言われる俗説はある種の真理を含んでいるとは考える。

問題は、だから苛酷な労働環境を放置してもよい、むしろ経済の活性化のためには望ましい、などと言ってしまってよいのかどうかということである。つまり、刑務所の環境を悪くしておくことで犯罪を減らすみたいな手法を、一般社会にまで適応してよいのかという問題である。さらに言えば、刑務所が強制労働施設だとすると、一般社会を強制労働施設のようなものにしてしまってよいのかという問題なのである。働くことのモチベーションが、いつまで経っても「今のひどい状態から脱出したいという」という性質のもので、果たしてよいのだろうか。

やはり私はよくないと考える。少なくともそれは、発展途上国型のモチベーションであって、いったん豊かな社会を経験してしまった日本のような超低成長社会では、労働市場から撤退する人を増やしていくだけであろう(そして実際そうなっている)。それにしても、堀江のような人が、むしろ団塊世代が言いそうな古臭い労働観を素朴に語っていたことには、少々驚かされたし、また失望した。

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雇用の流動化は「ブラック企業」を淘汰する?

解雇規制は、ブラック会社だけでなく、正規・非正規の雇用格差、ロスジェネ、ポスドクや高学歴ワーキングプア問題、多重下請け構造など、日本の雇用と産業に多数の問題を生み出している。これによって労働者のモチベーション、インセンティブが損なわれ、個人と企業の生産性も低下し、日本経済が沈滞させられている。

ブラック会社をなくすために、行政的な監視を強化しようという方向は現実的ではなく、コストも増えてしまう(税金が上がる)。ましてや法規制を強化してしまう方向は、逆効果になりかねない(規制が強くなれば、ますます雇用は減り、流動性も下がる)。そのような「規制的解決」ではなく、むしろ解雇規制をなくして雇用流動性を上げ、ダメな会社はすぐに「脱出」できるようにする、という「市場的解決」が望ましい。市場をきちんと機能させれば、ブラック会社は労働力を調達できなくなり、自然に消滅する。

会計に詳しい人や、投資をやっている人は、「流動性」が資産価値に直結していることをよく理解している。資産の「流動性」とは、その資産がどれくらいスムーズに市場で換金できるかという度合だ。いつでも手放せるからこそ、その資産を買おうという気になり、安心して持っていられるわけだ。

労働者を資産だと見なせば、日本は雇用の「流動性」が低いから、労働者の価値が低い、ということがよく理解できる。日本の会社は、いったん労働者を雇うとなかなか手放せない、という流動性リスクを負っている。だから逆にいえば、流動性の低さを利用して、労働者を安く調達し、安い給料や悪い待遇で働かせつづけることができるし、またそうしないと割に合わない面がある。このために、労使の対立構造もできやすくなり、「経営者が悪い」という経営者ワルモノ論が幅を利かせやすくなるわけだ。しかし真の原因は流動性の低さにあり、それを生んでいるのは解雇規制という国の制度なのである。

http://mojix.org/2009/07/09/why_black_company

この手の議論は一般常識的には「トンデモ」の部類に入る。しかし、ビジネス界や経済系の人には「正論」として流通しているところがあるので、ここで批判的に検討してみたい。

結論的にいうと、雇用の流動性が激化すればするほど、労働者の待遇は悪化していく。正確に言うと、一部の生産性が抜群に高いビジネスエリートに関しては企業が懸命に引きとめようとして良くなるが、それ以外のいくらでも入れ替えのきく、大多数の平均的な労働者の待遇は悪くなる。その理由は以下の通りである。

一つには、流動性が高まれば高まるほど、企業はいつでも代わりの労働者を確保することができるので、「文句があればやめればいい」という態度になり、労働者の待遇を上げるためのモチベーションが下がる。また労働者のほうも、企業に待遇改善を要求というそれなりに労力の要る行動よりも、「別のところを探せばいい」という態度をとるようになっていく。こうして労働者の待遇改善をはかるような企業はほとんどなくなり、どこに転職しても「ブラック企業」という状況がつくりだされていく。

二つには、流動性が高まると労働者間の横のつながりが自ずと希薄になり、労働組合のような労働者の待遇改善を求める団体を形成する力が生まれにくくなる。だから企業側が人件費の削減を求めても、労働者の側に抵抗するための力がほとんどなくなってしまう。

そして最後に、「ブラック企業」は確かに日本型企業社会の風土に根ざしているところはあるが、流動化はそれを解体するというよりも、悪い形で癒着してしまう可能性のほうが高い。つまり、日本社会では労働者の企業への絶対服従と生活保障がコインの両面だったので、雇用の安定性が脅かされると、生活ができなくなるという恐怖感から企業への絶対服従がいっそう強まるという、悪循環に陥ってしまうのである。

「ブラック企業」を減らしていく基本的な処方箋は、つまらないようだが企業外部のセーフティネットを充実させていくことで、労働者が「ブラック企業」にしがみつかなくても最低限生きていけるような仕組みをつくるしかない。セーフティネットがあるという安心感の下でこそ、健全な形での雇用の流動化が可能になる。解雇規制を緩めるという方向性は全面的に反対というわけではないが、事実上企業による正規雇用という形でしか生活保障の仕組みがない状態でそれを行っても、最悪の結果しか生まれないだろう。

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ベーシック・インカムは「溜め」につながるのか?

前々回の話題の続き。

『経済成長ってなんで必要なんだろう』における飯田泰之氏と湯浅誠氏の対立点は、私の考えでは「溜め」の具体的な内容に対する理解に求められる。飯田氏は湯浅氏の「溜め」の理解に全面的に賛同しつつ、それをベーシック・インカム(最低所得保障)によって回復させるべきだとという立場をとっている。

しかし根本的な問題は、ベーシック・インカムが本当に「溜め」につながるのか、ということにある。飯田氏の言う「負の所得税」という方法は、確かに論理としては明快である。しかし注意しなければいけないのは、湯浅氏の言う「溜め」というのは、仕事を紹介しくれる知人がいるとか、いざとなったら食事をおごってくれる先輩がいるとか、そして雇用保険や生活保護といった公的な社会保障制度とか、そういう「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」全般を含むものであることである。

ベーシック・インカムというのは、最低限の給付をしたらあとは全て個人の選択と自助努力ということになるが、それは湯浅氏に言わせれば相変わらず「溜め」のない状態だということになる。同じ額の所得保障を受けても、いざとなるときに頼りになる家族や友人がいなければ、その先の生活状況がまるで異なるものになるからである。湯浅氏の理解では、貧困の問題というのは単純に所得が減ったということではなく、具体的に「頼れる人」が周囲にいなくなってしまうことである。そして、こうした「溜め」の大小の差を埋めるためには、単純な所得保障だけでは不十分なのであって、職業紹介や職業訓練といったものを通じた、行政やNPOなどによる具体的な形での「手助け」が必要になるのである。飯田氏はそういう手助けは基本的にはお節介でしかないという立場らしいが、民間企業がこれらのコストを負担したがらないことを非難できない以上は、こうしたお節介も不可欠ではないかと考える。

他にもベーシック・インカムに対する疑問はいくつかある。一つには、湯浅氏が言っているように実現可能性の問題である(実際負の所得税は世界でも部分的にしか実行されていない)。正直本書を読んでも、飯田氏がこの根本的に重要な問題で悩んでいる形跡があまり見られない。困難でも声を上げて主張し続けることが重要という立場でもなく、素朴に実現可能だと思っている節があるが、それは政治制度についてまじめに考えてないとしか言いようがない。

そしてもう一つは、「負の所得税」が労働インセンティヴを与えるという(もともとフリードマンの)発想への違和感である。この発想にはなるほど思う反面、やはりそれは手の込んだ形での強制でしかないのではないか、という疑問が残るのである。制度によって人のインセンティヴを操作しようとするという発想は、どこかグロテスクである。やはり、現場の労働条件を改善することで働く人が増えるという、当たり前のプロセスを踏むほうが健全で現実的ではないだろうか。少なくとも、「自由」で風通しのよい社会というものを考えた際に、負の所得税がそうした社会への道筋をつけるようにはあまり思えないのである。

私の言っていることは、ある意味では退屈かもしれない。しかし飯田氏の議論への根本的な違和感は、それがあまりに鮮やか過ぎるために、理屈としては理解できるにしても、どうしても専門外の人間から見ると現実を無視した飛躍だらけの論法に見えてしまうことにある。その意味で社会経済学や政治経済学と呼ばれてきたような、飯田氏からすれば「役に立たない」経済学のほうが、はるかに信頼できるという印象は本書を読んでも基本的には変わらなかった。飯田氏の議論は、依然として人々の経験や実感の偏りや間違いを専門家の視点から正すという態度にとどまっているように思うが、本当に自らの主張を世論に説得しようと思うのなら、人々の経験や実感にきちんと届くような議論を模索していく必要があると考える。

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地方分権論批判

前回の本はまだ読めていないので・・。「地方分権」について。

90年代以降「地方分権」という言葉がメディア上で大きく語られるようになり、小泉政権時代に地方交付税の削減や財源移譲などの「三位一体」改革が進められたが、むしろ財源の厳しさはますます強まるばかりで、東京資本の大型SCやコンビニ店が地方の風景を埋め尽くして地元の商店が壊滅するなど、中央集権が以前よりもいっそう強まった印象がある。「三位一体」改革は財源移譲の面で不十分だったという批判もあるが、いずれにしても「地方分権」が政策を正当化するためのキーワードとして大きな力を持ち続けていることは間違いない。

ここ最近、「地方分権」がタレント出身の首長によってややポピュリスティックに語られるなど、本来の趣旨をかなり逸脱しているような現象も見られようになっている。ここであらためて、地方分権をどうして進めなければならないのか、という基本的な問題に立ち返ってみる必要があるだろう。

地方分権を必要とする第一の理由は、国家の財政規模が膨大なものになり、予算の配分を中央政府主導で決めることが能力的に困難になったことである。たとえば、年金制度が整備・拡大しつつあった時代の福祉行政は中央集権でよかったが、完備されて受給者が増大し、しかも社会の変化に合わせた柔軟な制度運用が求められるようになると、中央官庁だけで業務に対応することはとんど不可能になった。

第二の理由は、せいぜい2%が上限の超低成長時代になり、中央政府による公共事業政策が非効率になったことである。つまり、かつてのように「新幹線の駅ができる→人口と投資が増える→雇用が増える」といった拡大型循環が困難になって、少なくとも建設費用を回収できるほどの効果はなくなり、膨大な財政赤字の原因となっているのである。そのため、公共事業が必要であるにしても、地方の実情に即して行わなければ上手くいかなくなった。

第三にそれとも関わるが、高度成長時代のような国家全体で共有される目標が消失し、地方の複雑で多様なニーズに応じた政治が必要とされるようになったことである。特に、福祉事業など住民に密着した公共サービスのニーズは、地方分権的に行ったほうがはるかに効率的でである。

以上のように、地方分権が必要であることに基本的に異論はない。問題はその方法であり、世論に訴えるための論法である。この点において、地方分権論者の主張は依然として中央政府批判に傾きすぎている。そして抽象理念的な民主主義の話が多すぎる。言っていることは基本的に正しいが、聞いていると地元のことよりも中央省庁・中央政界のことにしか関心がないのではないか、と違和感を覚えることがままある。実際、地方分権を唱えている「改革派知事」というのは、退任後に地元に残っていることが少ないように、生活の基盤そのものは東京にあることが少なくない。

経済だけではなく、教育や医療・介護の問題などにおいて、地方が直面している困難は膨大にあるはずである。そして、その多くは単純に財源の問題であったりする。この切実で単純な問題から取り組みはじめるというのが「地方分権」の第一歩だと個人的には思うのだが、地方分権論者は、いきなり霞ヶ関批判や「脱中央」の主張をする。それはやはりおかしいのではないか。むしろ中央集権でも何でもいいから、地元の病院を存続させたるための手立てを打つのが、地方自治体の首長の責務というものだろう。

そもそも責務という以前に、地元住民の生活や生存に相対的に無関心のままであり続ける、理念先行型の地方分権が上手くいくとは決して思えないのである。無関心ではないにしても、彼らの地方自治の理念のなかに、生活や生存の問題がうまく位置づけられていないように感じるのである。中央政府がよけいな口出しをせず、地方分権が進めば自ずと地方の問題が解決するかのような口ぶりがあるが、やはりそれは違うのではないだろうか。

地方分権の理念はもちろんよい。しかし、地元住民の生活の経験や困難のなかから出てきた理念でなければ、それが実効的な形で定着することはない。このことを理解しないと、小泉政権時代の「三位一体」改革のように、気づいてみたら地方分権の名の下に財源が減っていただけ、ということになりがちである。「脱中央」とセットで地方分権を語ることは、ある程度は今でも必要かもしれないが、そろそろそれ以上のことを語ってほしいものだと思う。

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あえて反経済成長論を語る

 最初の話題は「経済成長」について。

 昨年の金融危機以降、資本主義社会であれば不可避であるはずの「経済成長」という概念そのものへの懐疑や批判が高まっている。特に、2000年代半ばに「戦後最長の景気拡大」を実現したことは、かえって国民の中に「経済成長」が社会の問題を何一つ解決しないという幻滅感を広めることになった。しかもメディア上で「経済成長」の必要性を語るエコノミストが、小泉政権と積極的に関わった経歴をもつ人物であったりするために、ますますこの言葉に対する世論の反感が強まっている側面がある。

 こういう現状に対する危機感から、経済成長の必要性をもう一度再認識しようという試みも出始めている。それが若手経済学者の飯田泰之氏を中心とした『経済成長はなんで必要なんだろう?』(光文社)という対談本である。それまで経済学の本というと、専門家同士で専門用語を駆使して、いかにして金融危機を脱するかのようなテクニカルな話をすることが多かった。私を含めた専門外の素人読者にとっては、経済書は読みやすいものではないことはもちろん、経済学者の常識や論理が反省されることもなく、一人歩きしているような印象に違和感をおぼえてしまう。たとえば社会学では、社会を観察・分析している専門家自身も社会から観察されているという反省的な視点を織り込むことが自明なのだが、経済学者は自らが経済システムを超然と観察できているかのように振舞いがちで、だからその議論の中身以前に、言っていることが浅薄で一面的に見えてしまうところがある。

この飯田氏の対談本は、対談相手に湯浅誠氏や赤木智弘氏などが含まれているように、経済学者が専門外(とくに若者貧困問題)の人を説得するための論理や論法を探り出そうという動機に基づいている。飯田氏が経済に無知な人を啓蒙してやろうというのではなく(若干感じる場面もなくはなかったが)、経済学者が往々にして社会の空気に鈍感なことに対する反省を込めてつくられた本である。一人の経済学の素人として、経済学的な正論を乱暴に振りかざすような議論に反発しつつも、道徳的な経済成長批判にも嘘くささや物足りなさをも感じていたので、ようやく自分が読みたかったような経済書が出てきたという思いである。

 この本はもう少ししっかり読んでからコメントしたいので、まず私の「経済成長」に対するスタンスを簡単に述べておく。

 私はおそらく、飯田氏のような人からすると反経済成長論者に分類されるかもしれない。

 それは第一に、経済成長そのものの必要性と不可避性は全面的に認めるものの、医療・介護や雇用・貧困などの問題が、すべて経済成長を前提にしなければ解決しないという物言いに反対するのである。むしろまずは、税制や社会保障制度を組み替えることによって、今ある手持ちの資産や財源を効率的に再配分することを優先すべきだと考えるのである。日本では再配分の結果、所得格差が拡大しているとという指摘があるが、だとすれば経済成長の前にそういう制度的な部分に手をつける余地がかなり多いということを意味する。

 第二に、私が反経済成長論者であるというのは、経済成長つまりGDPの増大を単なる手段としてしか見なしていないことである。手段という限りで経済成長の重要性を積極的に認めるものの、経済成長自体が社会の目標であるかのようには絶対に語らないことである。というのは、経済成長自体が社会の目標としてみなされると、マクロ経済的には経済成長に反する行動を取る人たちの意思を、それに益する人たちの意思よりも価値を低く扱ってしまうことになりがちだからである。そのような社会は、どう弁解しようと自由で公正な社会とは言えない。

もちろん、飯田氏も本書でそうした主張をしているわけではないが、この危うさが感じられることがときどきある。たとえば飯田氏は、経済基盤の弱い田舎に住み続ける人たちを支援することは経済的に非効率であり、その権利を認めるとしても費用便益の分析を経済の専門家が示した上で、後は政治的に選択させたほうがいいと主張している。

田舎に住み続けたいし経済的にも保証されたいという感情と欲求のために日本国民が年収の1割を提供すべきか,これは経済的結論ではなく僕の価値観ですが,答えはノーなんじゃないでしょうか.

http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/

この部分は、この本のなかでは飯田氏と全面的に対立する部分である。まず費用便益を政治的に選択させるというシチュエーションが登場した場合、何が起こるかを想像してみればいい。地方の寒村に住んでいる人が、「国の財政を傷つけてまで故郷にこだわるわがままな人」というイメージで見られることになるのは、火を見るよりも明らかではないだろうか。地方に住み続ける人の理由の大部分は、「地元が好き」という以上に「ほかに行くところがない」というものであろう。そういう人々に「生きているのが申し訳ない」と思わせても構わないというのが、果たして経済政策なのだろうか。ここで表明されている価値観の危険性とおぞましさは、適用範囲を世界大に拡大し、地方をアフリカ諸国などに置き換えてみればよくわかる。

こういう問題への感性があるという点において、私は主流派経済学者よりも、左派系・保守系の経済学者のほうを基本的に信用している。もちろん、飯田氏が夙に批判するように左派系・保守系の経済学者の議論は、実務的にはあまり(少なくとも直接的には)役に立たない。だから、主流派経済学者でありながら社会問題に広い目配りを怠らない飯田氏に期待するところは大きいのだが、その意味でも上述の発言は問題である。それは、まさに湯浅氏の言う「単純に誰も話を聞いてくれなくなる」ものであって、そしてこういう無神経な発言をメディア上で撒き散らしたことによって、経済学者が世論から敬遠されていったことは肝に銘じておくべきだろう。

 というわけで、これからも経済成長という言葉への不信感は基本的には変わらないと思うのだが、その上で経済成長の重要性を素人なりに理解していきたいと考えている。次回は、飯田氏と湯浅氏の対談を少しじっくり読んでコメントしたいと思う。

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