政策論について

 哲学者や社会学者による、大上段に構えた社会分析・社会批評が少なくなっている(少なくとも影響力が減退している)一方で、政策について語ることが流行している。ピケティブームに象徴されるように、現在最も真剣に読まれているのは、主流派経済学者の書いたものである。哲学者や社会学者、非主流派経済学者が格差の問題を語ってもあまり読まれなかったのに対して、統計データや具体的な政策論を提示する経済学者の議論は多くの読者を獲得している。

 人々が具体的な社会問題に関心を持ち、データや事実に即した政策を考えるようになったことはよいことである。しかし、正直言ってあまりに粗雑な政策論が目立っているように思う。私も政策論は素人であり、その細かい中身については容易に理解できないが、それでも最近横行している議論はあまりに乱暴という印象を否めない。先日、経済学者二人とタレントの一人が鼎談して「政策提言」をする本を立ち読みしてみたが、あまりの無責任な放談ぶりにその場で投げ捨ててしまった 。ベテランの社会学者の、社会保障強化で経済が成長するという内容の新書を手にとってみたが、意見自体は自分に近いにも関わらず、正直なところ素人の火遊びという印象はぬぐえず、真面目に読み進められなかった。


 大学に籍を置く経済学者や社会学者ですらこうなのだから、ブログやツイッターで繰り広げられている「政策論」に至っては言うまでもない。明らかに政策を語る資格のない人たちが、政策論を語ることに熱心になっている。文系学部削減論に憤る文系研究者は多いが、そうした人自身がかつてのような文系的な研究を地道に行うことをしなくなり、やたらに「エビデンスに基づく政策論」を語りたがるという、笑うに笑えない(まさに文系研究の衰退そのものを象徴する)風景もしばしば見られる。

 政策論を語るには、(1)当該の政策に関連する制度と法律の(その成立の目的や歴史的経緯を含めた)知識、(2)政策遂行のためにかかる財源の調達の目途、(3)有権者の支持/不支持を含めた政治的な実現の可能性と不可能性、(4)当該政策の倫理的な観点からみた適切性のそれぞれについての、丁寧な理解や見通しが絶対に不可欠である。


 例えば、近年の「ベーシックインカム」の「政策提言」について言えば、およそ政策論の名に値するものではない。それは、(1)日本で分厚い蓄積のある社会保障制度研究や近年の制度改革について言及すらない、(2)代替財源として国民年金や生活保護制度の解体という政治的な目途が極めて困難な方法を主張している、(3)BIを掲げる政党は皆無であり、それ以上に世論の猛反発は必死である、(4)関心が市場の効率性のみで貧困者の社会参加や尊厳の回復という問題には完全に無関心、等々の理由による。そもそもBI論は、再分配についての「原論」として読まれるべきものであり(実際最初期に日本にBI論を紹介した人は政策的BI論者ではなかった)、安易に政策論に落とし込むべきではない。

 さすがにBI論の支持者はそれほど多くなく、支持者の質もあまりよくない傾向があるので、無視してもよいかもしれない。そこで、比較的良識的と思われる人からも支持されているが、ダメな政策論の典型的なものとして、消費増税反対論を取り上げてみよう。例えば反対論者は、「社会保障を人質に消費増税を迫るな」「社会保障は社会保障財源に相応しくない」などという。そもそも認識として根本的に間違っているのだが、百歩譲ってそれを認めるとしても、現行の社会保障財政のスキームの根本に変更を迫るものである。それは金融政策とは異なり、首相や日銀総裁の鶴の一声で容易に変更可能なものではない。そうした政治的な困難さについて全く何も触れず、何の代替財源の見通しも提示しないまま、そのような耳障りのよい主張を繰り返すのはあまりに無責任であり、そもそも政策の現場は採用のしようがないだろう。

  「社会保障を人質に消費増税を迫るな」と財務省を批判したところで、恒久的な社会保障財源は安定的な財源を根拠に、という(それ自体は誤りとは言えないであろう)原則が大きく変更される見通しは、どこにも語られていない(要はそもそも関心がない)。結果として、前回の消費増税回避に象徴されるように、財務省はこれを好機とばかりに社会保障費の大幅な刈り込みにかかっており、とくに増税回避の煽りで介護報酬を大幅に減額された介護事業の現場は、崩壊の危機というよりも既に崩壊しつつある(当然だが公的資金に支えられている介護事業の倒産は普通の民間企業の倒産とは意味が異なる)。こうした帰結にまで責任をもった議論をして、はじめて「政策論」と呼ぶことができる。見たところ、反対論にはそうした誠実な政策論はほとんど見られない。


 反増税派は、体裁は「しっかりとしたデータに基づく政策論」のように見えるが、本当に事実やデータを重視しているかどうか、実際のところ相当に微妙である。当たり前だが、1997年の日本を含めて、消費増税が主要因で深刻な不況に陥った、ということが明々白々な事例は、世界中のどこの国を探しても存在しない。それはあくまで、一握りの経済学者の経済学的な仮説に過ぎない。消費の落ち込みは、雇用の流動化と労組の弱体化による給与水準の停滞、少子高齢化、社会保障費の抑制による先行き不安、不適切な規制緩和策による過当競争など、より重要で深刻と思われる理由はいくらでもあるが、反増税派はそうした他の様々な可能性を真剣に検討しようとしない。そして、「消費増税の前に歳出の無駄を徹底的に削減する」という理由で財政の緊縮化が推し進められてきた、それこそ歴代総理の発言(特に小泉元首相と鳩山元首相)から因果関係がかなり明白な事実についても、全く取り上げられない(そもそも、彼らは「反緊縮」を自認しているものの、実際のところ消費増税以外の緊縮策の阻止にはほとんど熱心ではない)。

 また、「社会保障目的の消費増税は世界に例がない」というデマがあちこちで垂れ流されているが、当然ながら1970年代以降にEU諸国が消費税の増税を採用していったのは、完全雇用の実現困難による、社会保険方式と所得税依存の社会保障財政が限界に来た、その安定的な代替財源としてである。政策担当者に消費増税の目的を聞けば、「もちろん社会保障目的です」と普通に答えるに違いない。もちろん、厳格に法律で紐付けてないという極めて狭い意味では目的税ではないが、増税の政治的な正当化言説として社会保障目的だとアピールするのは(「目的」とはそういう意味である)、日本も諸外国も全く同じである。税と社会保障に関するデマや誤解と思われるものは枚挙に暇がないが、残念ながら訂正する人は全く出てこない。言うまでもなく、「社会保障目的の消費増税は世界に例がない」と述べる人は、学会と政策の現場で長年の風雪に耐えてきた、税と社会保障に関する分厚い実証研究については、一行も参照していない。

 そして2014年4月の3%増税から2年近くになるが、少なくとも反増税派が力説したほどの深刻な景気の落ち込みは招いていない。97年との比較でいえば、景気は消費増税などよりも金融・財政政策(97年はかなり強い引き締め)や世界経済の動向の影響(97年はアジア金融危機)の方がはるかに大きく受ける、と解釈するほうが常識的だろう。ところが、それを反省するどころか、「増税さえなければアベノミクスはもっと成功した」などという、欺瞞に満ちた言い訳ばかりが語られており、それを批判する声もきわめて小さい。要するに「事実とデータに基づく政策論」と言っても、声が大きい人たちが提示する「事実」「データ」が一方的に参照されているに過ぎない。

 そして税と再分配・社会保障の問題は「民主主義」の問題でもある。民主主義である以上、当然ながら様々な利害や問題関心、価値観を持った有権者を巻き込むものである。専門家が自分の専門に対する狭い関心だけで押し通すことはできないし、またそうすべきでもない。先般の軽減税率の問題に対して、反対派は「経済学者で賛成している人はない」という、極めて硬直した独りよがりの議論に終始し、世論に全く届く気配がなかったことなどはその典型である。そこでは、別の専門家による批判だけではなく、イデオロギー的な反対者も、「主婦目線」による不満も、「既得権者」による抵抗も、全て民主主義の重要な構成要素であることが、全く理解されていない。

 その意味で、政策論には民主的な議論の盛り上がりを通じた調整と妥協が不可欠であるが、これが今の日本では全くと言ってよいほど存在していない。もちろん、民主的な議論が必要だと言えば誰も否定はしないだろうか、実際のところは「自分たちの真っ当で正しい意見だけで政策をつくるべきだ」という雰囲気が明らかに強くなっている。これは安倍政権は言うまでもないが、特に若手のリベラルな良識派の人たちにも広く蔓延しているように感じる。

 当然ながら、政策を実現するためには、法的根拠を有する社会制度の改変と、政策遂行のための財源を調達することが必要である。そのためには、現行の制度がどのように運営されているのかの細部の知識と、財源調達のための具体的な政治過程についての丁寧な理解が必須である。当たり前だが、それは「現行制度では難しい」「財源が厳しい」という、官僚の声に従うべきといっているのではなく、そうした知識や理解なしに、官僚の声に効果的に抵抗できるわけがないのである。

 政策論を語ると、束の間とはいえ何か社会に貢献した気分にはなる。しかし所詮は気分に過ぎないので、次の瞬間にはまた疎外感や無力感に襲われることになる。また政策論は、現在必要とされていることをとりあえず自明視して議論を進めるので、下手すると人々の視野を狭くしてしまうという負の副作用もある。例えば消費増税派の人は「健全財政のために人間が存在しているのではない」ことを反省しないし、反増税派の人は「経済成長のために人間が生きているのではない」ことを全く反省しようとしない。そして反省を求めると、途端に「トンデモ」と決め付けてコミュニケーションを遮断する。哲学者や社会学者の社会批評に人気があった頃の方が、もう少し「聴く耳」というものがあったように思う。

 
 当たり前だが、その分野に精通している専門家であるほど、政策を語ることには慎重である。税や社会保障のような、制度自体が複雑だけではなく、多様な利害や価値関心もが複雑に絡み合っている問題については、特にそうならざるを得ない。一見裁量の大きな中央銀行総裁にしても、その発言一つでグローバルな規模の株式市場の乱高下を引き起こす可能性がある以上、自らの政策論を矛に収めざるを得ない場面が多々ある。政策の現場から遠いところで語られる、中途半端で偏った知識や問題関心に基づく無責任な「政策論」は、実際に政策の現場で汗をかいている人間からすれば、全く役に立たない上に害悪ですらある。

 民主主義的な社会とは、政権のブレーンにでもなったつもりで「政策提言」を語る人が多くなる社会では断じてなく、自らの主義主張や利害関心を政治に反映させるために、人々が議論、妥協、調整、協力を不断に行う社会のことを意味する。政府の労働政策にネット上であれこれと難癖をつけて論じながら、職場では上司のパワハラに黙って耐えるだけ、ストライキを起こす手段も方法もわからない、という社会がおよそ健全であるわけがない。まずは身近に抱えている問題を解決するために何が必要なのかを考え行動し、人々を巻き込んで組織化していくこと、それが本当の意味で「政治」に関わることであるという、そうした原点に立ち戻ることが必要である。

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論争の衰退

 最近、論争というものを目にすることが非常に少なくなった。1990年代に、「憲法改正」や「従軍慰安婦」や「歴史認識」をめぐって激しい論争があった。当時は当時でまともな論争の不在を嘆いたものだが、今から振り返ると、お互いに論敵が何を言っているのかは最低限アンテナを張り、それに応答する形で議論が行われていたように思う。少なくとも右派も、『朝日新聞』や左翼学者の論説を真正面から取り上げて、それを批判する形で議論を展開していた。

 しかし、現在はそうした批判すら全く見られなくなっている。脱原発、消費税増税、ヘイトスピーチ、集団的自衛権、脱成長論などをめぐって、日本の国民の間でかなり鋭い意見の対立があるが、意見を述べる人たちの文章の中に、論敵の議論がまともに取り上げられることはきわめて少ない。また取り上げられるにしても、かなり質の悪い議論ばかりがターゲットになったり、あるいは論敵の言葉尻を捉えて、それを「本音」だ決めつけて糾弾して叩いたりするような議論が多い。

 個人的に関心の強い税と社会保障の問題について言えば、増税反対派は「増税すれば日本経済が崩壊する」と言い、賛成派は「財政健全化への安心から増税すれば経済が好転する」などと、極端で怪しげな議論が横行している。論敵からすれば当然苦笑いするしかないような、こうした乱暴な議論が修正されないまま横行しているのは、彼らが反対者を説得するための言葉や論理を探求していくよりも前に、仲間うちで共感される言葉遣いが優先されてしまうためであろう。

 他にもヘイトスピーチでは規制派と慎重派、脱原発では再稼働容認派と否定派など、両者がじっくり議論を交わしているという記事やテレビ番組を、一度も目にしたことがない。安保法制をめぐっても、反対派は「戦争法案」だと言い、そして推進派は「積極的平和主義」という、それぞれ独りよがりの解釈で、およそ議論がかみ合う気配すらない(もちろん責任の圧倒的大部分は権力を握っている安倍政権側にある)。

 脱成長論に対しても、「高度成長を享受した年長世代が逃げ切ろうとしている」という定型化された批判がある。そういう側面が皆無というつもりはないが、やはり単に論者の世代的属性だけを取り上げた、根拠のない言いがかりやレッテル貼りにすぎない。しかし日本を代表する大学に所属する経済学者や社会学者で、不断は実証的根拠を厳しく問うている人たちですら、こうした批判を口走ることが往々にしてある。

 主張の場がいくつかの論壇誌に限られていたかつてであれば、意見の異なる相手の議論を全く無視することは難しく、自分の意見を人に聞いてもらうためには、肌に合わない主張にも目を通して、それなりの応答をせざるを得なかった。しかし2000年代以降、インターネットの掲示板や、特にSNSによるコミュニケーションの普及によって、意見の同じ者どうしで延々と「つるむ」ことが可能になってしまった。それによって、『朝日新聞』「在日」「サヨク」から「日銀」「財務省」に至るまで、具体的な相手の主張を読もうとも知ろうともせずに、一方的に攻撃する議論が横行するようになった。

 これは2ちゃんねるやツイッターのようないかにもな場所だけではなく、例えばネットメディアでは目下最も質が高いと思われる「シノドス」にも(言葉遣いがソフトで洗練されてはいるが)感じられる傾向である。「シノドス」のイデオロギー的立ち居地はきわめて明確なのにも関わらず(リベラル、リフレ政策全面支持、成長必要論など)、ある議論が批判の俎上に上る場合は、やはり無知や不勉強というスタンスから批判されているし、社会保障論や労働法学などの専門領域については、おそらく増税支持者や成長主義批判者が多いという理由からか、完全に黙殺を決め込んでいる。

 論争が停滞しているというだけではなく、非常に厄介な事態は、そもそも良識派の人たちが、論争を無意味で不毛なものと考えている傾向も見られることである。それはおそらく、論争というものを、相手を言い負かすとか、論破するとか、あるいは聴衆を味方に付けるとか、そう勘違いしているからだろう。そもそも、数時間程度の議論で相手が説得されるわけがないのである。そういうことがあるとしたら、それは相手がよほど無知の素人でなければ、教師と生徒のような権力関係があらかじめ存在している場合だけだろう。

 こうした論争に関する誤解は、多分に『朝まで生テレビ』のような、テレビ討論番組の弊害によるところも大きい。知識も問題関心も共有できていない十数人の人たちが、人の話もろくに聞かず、延々と自説をまくしたて、人に対して白か黒かの態度表明を迫る。選挙前の討論番組に至っては、泡沫政党を含めた各政党が早口で数分間の演説をしているだけに過ぎない。こうした実質的な討論を全くしない「討論番組」が、かつての民主党政権のような、財源の裏付けを欠いた実現不可能な「マニフェスト」を修正させる役割を果たすことができず、結果として深刻な政局の混乱を招いてしまったことは記憶に新しい。

  こう述べている自分も、議論などまったく出来ていない。自分は社会保障制度を維持していく観点から消費増税への乱暴な批判には同調していないが、反増税派の人たちの懸念もよく理解しているつもりである。しかし反増税派の人たちとは、まるで宇宙人と会話をしているかのように話が合わない。反増税派に同調できないのは、彼ら反対派の議論を間違っていると考えているからでは必ずしもなく、自分の問題関心に全く応えようとしていないからなのだが、それを伝えても全く理解されない。何かと言えばグルーグマンを読め、スティグリッツを読めと返されるのだが、こうした(自分もその気になればいくらでもできるような)批判は、意見が異なる相手を専門分野や価値観が異なる相手としてではなく、単なる無知や不勉強であるとしか理解できない、という事態を象徴している。

 この5年ほど池上彰氏の影響力が大きくなっているが、氏の番組が少し危険だなと思うのは、こうした「政治的に中立的な立場からの解説」は、例えばそこに中国や韓国に対する偏見が紛れ込まれた場合に、全く反省できなくなってしまうことである。中立的に物事を観察しているつもりの人、イデオロギーから自由であるかのように思い込んでいる人ほど、極端な議論にはまりやすい。それは、イデオロギーの極致のように見える在特会も、イデオロギー的な色付けを嫌い、「日本人として当たり前のこと」を強調していることからも理解できることである。

 多様な意見への許容度が低くなっているのは、決して安倍政権のみに特徴的なことではなく、リベラル派を含めて全般的に感じることである。どのように「論争」の場を健全な形で復権させるのか、という問題意識そのものがもう少し盛り上がっていくことを望みたい。

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日本礼賛論について

 最近、日本礼賛論が流行している。書店の棚を見れば、テレビをつければ、「世界の人が驚くニッポンの凄さ!」みたいなタイトルで溢れている。こうした流行に批判的な多くの人は、日本人の不安と自信喪失を象徴しているものと解説している。そうした解説が間違いだと言いたいわけではないが、やはり表面的な印象論という以上のものを感じないので、なぜこうした日本礼賛論が流行しているのかについて、ここで簡単に述べておきたい。

 振り返れば、ここまで自己賛美的な日本人論の流行は戦後史の中で初めてのことである。戦後間もなくは、丸山真男に代表されるように、悲惨な敗戦を導いた日本人性の病理的な側面を描き出す議論が大半であり、それに対して欧米社会は説明するまでもない、日本が目指すべきモデルであった。まだ貧しかった日本社会の現実は、こうした議論に強い説得力を持たせていた。

 高度成長を経験する1960年代以降、中根千枝など日本人の特性を体系的に描き出そうとする議論が多く生まれた。これは、経済的・社会制度的には欧米社会に近づくにつれて、かえって欧米との落差やズレが具体的に意識されるようになったためである。しかしこの時期の日本人論は、学術用語を用いたものも多く、読者も相対的に限られており、大衆的に受容されたものとは言えなかった。

 1990年代以降は、学術や雑誌論壇において日本人論は完全に衰退した。しかし他方で、一般書やテレビ番組レベルでは、日本人の異質性を批判したり茶化したりするような本や番組が量産されていった。90年代末の『ここがヘンだよ日本人』は、その代表的なものと言えるだろう。また政治の水準では、新自由主義的な構造改革論が展開されたが、これはウォルフレンなどの日本異質性論を下敷きにしたものであり、バブル崩壊以降の日本の経済停滞を説明するものとして説得力を獲得した。80年代までは知的意欲のある読者のみを対象にしていた日本人論は、通俗化された形で大衆的に広く消費され、そして政治レベルでも応用されていった。

 以上のように、2010年代以降の日本礼賛論は、直前の90-2000年代までの大衆的・政治的な日本異質性批判の流れを受けたものであると理解される必要がある。『ここがヘンだよ日本人』的な番組は、日本人の自己反省が一巡すると次第に飽きられ、「脱官僚」を掲げた民主党政権の失敗などで、日本異質性批判を根拠にした構造改革論も、以前の勢いを完全に失った。こうした中で日本礼賛論が、「意外」かつ「新鮮」なものとして、急速に読者と視聴者を惹きつけているわけである。

 そもそも、日本の異質性を批判する根拠である外国が、規範的な基準に全くならなくなった。構造改革論の当初のモデルだったアメリカは、イラク戦争とリーマンショック以降に完全に色あせてしまった。治安、衛生、交通や上下水道のなど公的インフラ、飲食店のサービス水準など、先進国の中で日本が最も優れている部類であることは、現在の日本礼賛論に批判的な人でも否定していない。こうして外国を基準に日本を批判するという手法は、既に説得力を完全に失ってしまっている。

 そして既に指摘されている通り、オリンピックと観光立国によって日本の良さを再発見しアピールしていくことが、喫緊の「国策」になっている。メディアにとっても、日本礼賛論はリスクやコストが極めて少ない「優良コンテンツ」である。日本異質性批判は、扱っている話題によっては、最終的に社会問題の解決への真摯な取り組みがメディアに求めらるし、特に中韓関係にも関わるものであったりすると、「炎上」を避けることは困難である。日本礼賛論にはそうした責任が全くかからないだけではなく、場合によってはコンテンツを提供している企業や自治体から支援を受けることさえできる。

 以上の要因が、今の日本礼賛論をもたらしていると言うことができる。私は日本礼賛論には当然批判的だが、それは、そもそも日本を総体として批判すべきとか賞賛すべきとかいう態度や議論そのものが、完全に間違っていると考えているからである。優れた伝統文化があり、解消すべき差別・排除の問題があるとしても、それを性急に「だから日本は・・・」という物言いに回収しないことが、そうした文化の内実を真に尊重し、差別問題をより具体的に捉えていくことになることを理解すべきだろう。

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「アベノミクス選挙」後の課題

 先の総選挙で安倍自民党は文字通りの「圧勝」を収めた。この結果は何を象徴しているのだろうか。国民は一体この選挙で何を「選択」したのだろうか。

 一つには、与野党間(あるいは党内の)の政策論争が華やかに繰り広げられる政治よりも、安定政権による手堅い(と思われている)政治運営の選択である。これは端的に55年体制の長期安定政権への回帰志向と言ってよく、決して「保守」や「右派」の政治的価値観が勝利したのではないことは、個々の安倍政権の右派的な政策に対する批判的な世論調査結果からも、また今回の選挙における「次世代の党」の惨敗を見ても明らかである。

 もう一つは、「アベノミクスの是非」が争点となったように、中長期的な社会保障の強化よりも短期的な「景気」の問題を選択したことである。安倍首相は消費増税を先送りしたが、それは既に報道されている通り、(1)低所得高齢者給付金、(2)年金最低加入期間の短縮、(3)低所得者の介護保険料の軽減、(4)介護士や保育士の待遇改善等々、消費税を財源とした社会保障強化策を取りやめる、あるいは先送りすることを決断したという意味でもある(くらし☆解説 「消費増税延期 社会保障はどうなる?」http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/204120.html)。

 もちろん、増税による社会保障強化は大規模なものではなく、全体としては負担増や削減という批判を受けやすいものではあるが、少なくとも社会保障費のラディカルな抑制を引き起こす蓋然性の高い消費増税の先送りよりは、前向きな方向であることは間違いない。しかしこうした方向性は、自民党内からも野党からも全く打ち出されることはなく、むしろ「景気重視」の姿勢を全面的に押し出す道を選択し、またそれが有権者に支持される形となった。こうした、まず景気や経済成長があってこその福祉と言う考え方も、過去の自民党政権への回帰志向と言ってよいだろう。

 しかし以上の二つの「選択」には、明らかな限界がある。一つには、今の自民党にはかつてのような農村部や商店街のような安定した分厚い支持基盤はなく、潜在的には年金生活者を中心とする浮動票依存であることである。今の安倍政権の表面的な安定性は、景気後退や党内の派閥抗争で一挙に崩れ去るもろさを抱え込んでいる。かつては、自民党内の政策上の対立や政争は盛んに報道されていたが、今は懸命に押さえ込まれて全くニュースにならないように、もはや今の自民党は党内の意思不統一を鷹揚に許容できるほどの強さはなくなっている。

  もう一つの限界は、景気や経済成長は依然重要な課題であるとして、脱工業化・少子高齢化した今の日本では、バブル期以前の経済成長の復活などは、もはやあり得るものではないことである。先進諸国の成長率はせいぜい3%が限界であり、大部分の国民にとっては「言われてみないとわからない」レベルである。だから現実に安倍政権が直面しているように、たとえ景気浮揚や成長を実現し、それを世論にアピールしたとしても、必然的に「実感がない」という反発の声も盛り上がり、完全に逆効果になってしまうことになる。

 以上の限界に対する課題はどのようなものになるだろうか。まず前者に対しては、「政権担当能力の有無」という政策以前の問題が選挙の争点になってしまい、有権者にとって事実上選択肢がなくなる、というこうした状況を変えていくことが必要になる。そのためには、安倍政権の政策論に対する批判的な世論を、いかに草の根で組織化していくかということが課題になる。反貧困の運動や脱原発運動、ヘイトスピーチに対する「カウンター」の運動など、個々には必ずしも全面的に賛同できかねるものもあるが、2000年代後半以降に叢生した、これらの様々な左派的な社会運動を大事に育てて、民主主義の制度(特に政党制度)の中に組み込んでいくことが必要になる。

 後者に対しては、短期的な景気の動向に国民生活が過度に依存しない社会をどう構築するか、ということが課題になる。景気浮揚や経済成長はマクロな社会の再生産のために追求されるべき政治課題であり続けるとして、今の日本のように個々の国民が短期的な景気の動向を過度に心配して、増税延期による社会保障費の抑制や削減を甘受させられているような社会は、それ自体において歪んだものと言うべきであろう。

 事実、欧州の付加価値税は(早期に導入していたフランスを例外として)欧州全体が高い失業率と財政赤字に苦しんだ1970年代後半から80年代にかけて、急激に上昇してきたものである。こうした、短期的な景気悪化を甘受しながら(ただ当時はデフレではなくスタグフレーションであったことは考慮される必要がある)社会保障財政の強化を図ってきた欧州諸国の選択は、結果的に現在に至る「大きな政府」と「福祉国家」の社会を支えてきた、と評価することも可能である。

 目指すところは難しいことではなく、国民全員が政治に参加した、様々な可能性の中から主体的に選択を行った、と実感できるような民主的な社会をつくることである。今回の、参加や選択の余地ない「アベノミクス選挙」は、そうした当たり前の課題をあらためて浮き彫りにしたと言えるだろう。

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イデオロギーの復権

 近年アカデミズムでもネット論壇でも、「実証に基づく議論」が主流になっており、旧来のような価値や「イデオロギー」に基づく議論はすっかり影を潜めている。1980年代や1990年代には哲学者や社会学者の社会批評が隆盛したが、現在は実証性に乏しいとしてかつてほどの読者を獲得できなくなっている。では実証に基づく社会分析や政策論が増えたことで、議論の質が向上しているのかと言うと、必ずしもそうとは言えない現状がある。むしろ、意見の異なる者同士の論争がますます成立しなくなっているという、より深刻な事態をもたらしているように見える。

 「イデオロギー」の時代は、議論の質はともかくとして、少なくとも対立や闘争という形の「対話」が最低限成立していた。昔の保守派は批判するためにもマルクス主義の文献や左翼知識人の論文に目を通していたし、全共闘の学生はつるし上げの対象である大学教師の本をよく読んでいた。佐高信と西部邁が対談本を何冊も出しているように、「イデオロギーの時代」を生きた世代の知識人には、意見が異なるからこそ対話が必要だという感覚はまだ残っている。

 しかし最近流行の「実証に基づく議論」は、そういうレベルの対話すら起こらない。自分と意見の異なる人間が、価値やイデオロギーが異なるのではなく、「事実」「データ」を知らない、あるいは知っていても理解できない人間として位置づけられているからである。それゆえに、偏った「事実」「データ」とその解釈を共有する仲間内の共感や、「こうした事実をなぜ他の人たちは無視しているのか」という少数派意識のルサンチマンが蔓延する結果になっている。ネット上のジャーゴンでは、批判者を「デンパ」「トンデモ」呼ばわりすることが横行している。

 こうした議論の最たる存在が「在特会」であろう。在特会の指導者や関係者が出版している本には、実のところ彼らが街頭で呼号しているような扇動的な差別表現はほとんどなく、むしろ一見したところ「事実」が淡々と記されているかのような記述が続く。そして、そうした「事実」が「国民に知らされていない」ことへの「義憤」を表現する、という体裁を取っている。

 かつての『嫌韓流』も、韓国の(かなり戯画化された)民族主義者を「実証的に論破する」という体裁をとるものであった。ヘイトスピーチの根っ子が素朴な差別感情に過ぎないのであれば、「差別はよくない」とストレート言い返すことも可能である。しかし彼らが厄介なのは、「なぜ『事実』『真実』を見ようとしないのか」と迫ってくることにある。差別扇動をやめろと訴えても、なぜお前たちは「真実」を見ようとしないのか、はやく目を覚ませ、とまくし立てられてしまう。

 在特会は極端だが、脱原発問題や経済・財政などの問題でも、その内容の当否はともかくとして、「真実」「事実」を直視したがらないという批判で、意見の異なる者の議論をそもそも聞こうとも読もうともしない、という態度が広く蔓延している。在特会がアカデミズムにおける在日研究を一行も参照しないまま在日をバッシングしているように、消費増税を財務省陰謀論で攻撃的に批判する経済学者の文章には、財政学や社会保障論で蓄積されてきた実証研究は全く登場しない。

 そもそも消費増税の問題などは、財政健全化に関心を持つ者、社会保障財政の強化と充実を目指す者、景気に対する悪影響を懸念する者という、それぞれの問題関心を抱えた者同士が徹底的に議論し合い、妥協・調整すべき問題である。それにも関わらず、そうした論争の場はほとんど成立しないため、結局一部の専門家の主導とその時々の政治の力関係で政策が決まり、大多数の人にとって疎外感と不満感が残り、政治不信を醸成するという結果になっている。

 本来「事実」は意見の異なる者同士が対話するための、共有財になり得るはずのものであり、またなるべきものである。しかし現在、むしろ「実証的な議論」への強い志向性それ自体が、論争の成立を妨げて一方通行の(しかし「なぜ理解されないのか」というルサンチマンばかりは強い)議論を大量に生み出している。

 断わるまでもないが、実証的な議論の重要性は、強調してもし過ぎることはない。問題は、本来価値やイデオロギーの水準で議論すべきことまで、無理に「実証的に論破」しようとしている傾向が強まっていることにある。例えば「従軍慰安婦の強制連行」問題がそうだが、本来これは戦争責任や女性の人権、ナショナル・ヒストリーなどはどうあるべきか、という次元で争うべき問題のはずである。それが、瑣末な実証の水準で相手を「論破」しさえすれば、相手の価値やイデオロギーまで覆すことができるという、倒錯した論理が横行している。

 消費増税の問題もそうである。景気後退のリスクを背負ってでも社会保障制度を支えるのか、それとも社会保障費の削減を甘受してでも目の前の景気を優先するのか、そもそも社会保障制度にとって消費税は公平な税制なのかどうか、といった「価値」の問題については全く議論がなされないまま、「消費増税と景気の関係」というレベルの問題ばかりに関心が集中している。そのため、「自分は実証的に確かなことを言っているのに理解できない人がいる」という、批判者の知性を劣等視するような愚痴っぽい議論ばかりが目に付く。実際、現在の「アベノミクスの是非」を争点とした今回の選挙では、こうした類の議論が広く蔓延し、健全な政策論争などほとんど期待できない結果になっている。

 価値やイデオロギーは人を狂信的にする危うさを孕んでいないわけではないが、自らの主義主張を言語化し、その偏りや特殊性への反省を可能にするための役割を果たすこともあることも確かである。政策を語るに当たって実証性が重要であることは言うまでもないが、それと同時に、価値やイデオロギーをどう政治的に組織化していくかも、これからの課題とならなければならないと考える。

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「大義なき選挙」に向けて

  「アベノミクスを支持するか否か」を争点とした総選挙が行われようとしている。当初から「大義なき選挙」などと呼ばれてきたが、それ以前の問題として、そもそも争点自体があまりに不適切という以上に無意味で不毛であると言わざるを得ない。

  一つには、 経済政策の成功・失敗というのは、5年10年単位という長期で評価を下すべきものである。2年間弱で安倍政権の経済政策の評価を判断するのは早すぎる。アメリカもようやく5年以上経ってゼロ金利解除が決定されたばかりであるが、それでも失業率はリーマンショック以前の水準には回復していない。オバマ政権は経済政策で着実に実績を残してきたと評価する人は多いが、それでも先の中間選挙で示されたように、アメリカ国民の多くは満足していないのが現状である。

 そして二つには、経済政策や税の問題はきわめて複雑で専門的である。テレビで行われている「わかりやすい解説」に満足している専門家はほとんど稀だろうし、言うまでもなく専門家同士でも意見の対立があり、反増税派が言うように消費増税が「国民生活の破綻」を招くかどうかなど、増税の影響以外の様々な条件を総合的に勘案しなければいけない問題も多い。こうした問題を素人の有権者の判断に委ねることは、そもそも無謀であり、容易にポピュリズムに陥ることになるだろう。

   では有権者が判断できる争点が存在していないのかと言うと、決してそうではない。それは「消費増税を取り止めることで、予定されていた社会保障の機能強化分の撤回や社会保障費の(今まで以上の)抑制を受け入れるか否か」である。
 
消費増税による税収はすべて年金、医療、子育てなど社会保障に充てると法律で決まっているため、再増税を先送りすると、来年度、社会保障サービスの充実に充てられるお金は約4500億円減る。このため、再増税の税収を前提とした施策の絞り込みが迫られている。年金では、再増税時に実施すると法律で決まっていた「弱者対策」が二つあった。

一つは、年金が少ない高齢者や障害者への給付金で、約790万人が対象。保険料を40年納めた人では、月5千円支給することになっていた。来年度は増税分から1900億円を充てる予定だった。

もう一つは、年金の受け取りに必要な保険料の支払期間を、いまの25年から10年に短くするものだ。無年金の人を減らす狙いで、来年度は75億円を充てることにしていた。政権幹部は20日、「年金の充実は無理だ」と年金の弱者対策は来年度に導入できないとの見通しを示し、財務省厚生労働省は見送りの方向で検討に入った。

http://digital.asahi.com/articles/ASGCN5WCGGCNULFA02B.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGCN5WCGGCNULFA02B  
 
 
 この記事にもあるように、毎日の買い物の負担が増えることと、いざという時のセーフティネットがより弱体化することと、どちらが許容可能で貧困者や低所得者によってより負担が低い社会かという争点が、既に目の前に示されている。こうしたネガティヴな選択肢に不満を感じる人もいるだろうが、今の日本ではこうした形の選択肢しか(実現可能なものとしては)提示されていない、という現実から出発する以外にない。少なくとも、こうした争点であればほとんどの有権者は理解可能であり、この国の社会保障の方向性にとっても根本的で重要な争点であると言うことができる。
 
 しかし今のところ、こうした問題は悲惨なほど興味関心を持たれていない。それどころか、こうした争点をツイッター上で慎重に提示した福祉事業者が、アベノミクス支持者によって炎上させられるという騒ぎが起こっている。ツイッター上の真面目に取り上げるに値しない言いがかりや中傷とは言え、有権者が判断可能な争点が争点にならず、逆に素人が判断しようのない専門的な問題が争点になりやすいという、現在の日本の政策論争の問題を象徴的に示している。
 
 国内にある多様な利害対立を争点化し、政治的に組織化していくことは民主主義の基本である。「全国民の利益」を早急に語ろうとする人は多いが、そのような利益が簡単に確定できるとしたら、それはもはや民主主義の社会とは言えないだろう。今回のような、政権与党の経済政策に対する信任投票的な選挙というのは、独裁的な政治体制が民主主義を偽装するために実行しているそれと、意味合い的にはほとんど変わらない。
 
 しかし選挙になった以上、いずれにせよこれを日本の民主主義の深化へとつなげていくことが必要である。そのためには、「アベノミクスの是非」を問うという、首相と政権与党の争点に乗っかるのではなく、それとは別の争点を提示して、多様な利害関心を組織化していくことが、野党やマスメディアおよびネット上で発言力を持つ人々の責任である。

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スウェーデンで福祉ショーヴィニズム政党が躍進中

 スウェーデンでも福祉ショーヴィニズム政党が躍進中という記事が出ていた。

スウェーデン総選挙、極右政党議席獲得の勢い

 北欧スウェーデンで19日に実施される総選挙(定数349、比例制)で、移民排斥を公約する極右の小政党・民主党が初めて議席を獲得する勢いを示している。

 中道右派の与党連合、4年ぶりの政権奪回を狙う左派の野党連合とも過半数に達しない場合、民主党が次期政権の枠組みのカギを握り、混乱が起きかねないとの懸念が強まっている。

 14日公表された世論調査では、ラインフェルト首相の穏健党が主導する与党4党連合の支持率は50・3%。社会民主労働党を中心とする野党の左派3党連合の43・8%を上回っているが、過半数を確実に超えるとは言えない状況だ。

 こうしたなか、存在感を強めているのが「イスラム教徒は社会の脅威」と公言してはばからないスウェーデン民主党だ。前回総選挙での得票率は2・9%だったが、最近の世論調査では4~8%の支持を得ており、議席獲得の条件である「4%以上の得票」を満たす可能性が高まっている。

 同党のジミー・オーケソン党首(31)は読売新聞との会見で「仕事をせず、税金も払わない移民に失業手当などの特典を与え、社会福祉制度のただ乗りを認め続ければ、今の制度は崩壊する」と断言。「7~9%は得票し、国会でキングメーカーになりたい」と述べ、次期政権の枠組み作りで主導権を握ることへの意欲をみなぎらせた。(ストックホルムで 大内佐紀)

(2010年9月16日20時04分  読売新聞)
 過去のスウェーデンや北欧諸国の実績からすると、ワークフェアと社会保障を同時に強化することで乗り越えてきた、つまり就労支援・促進を通じた移民の社会統合という道を歩んできたわけであるが、今回はどのように対処するのか注視されるところである。

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「福祉ショーヴィニズム」再考

 前回の続きで、自国の社会保障を維持・充実させるために、外国人や移民に対する福祉サービスを批判・攻撃するような現象を、今回は「福祉ショーヴィニズム」の語に統一して、日本で「福祉ショーヴィニズム」が盛り上がるとしたらどういう条件の下においてか、ということについて再考してみたい。

■ 現代日本における福祉ショーヴィニズムの事例

 日本では福祉ショーヴィニズムの動きは弱いと前回書いたが、もちろん全くないわけではない。以下に、具体的な事例を二つ挙げておきたい。

 一つは、例の排外主義団体である「在特会」である。「在特会」は設立当初から、在日韓国・朝鮮人が年金給付を要求していることを激しく批判していたが、最近も「在特会」は無年金外国人に給付金を支給する、「在日外国人等高齢者福祉給付金」を攻撃対象にしている。「在特会」の主張によると、「年金の掛け金を一円も払っていない」のに、「日本人をないがしろにして、朝鮮人を優遇する社会保障制度」であるという(http://aikokusens.exblog.jp/14879392/)。

 しかし、そもそも「在日外国人等高齢者給付金」という制度は、どういうものなのだろうか。結論的にいえば、これは外国人向けの福祉政策というよりも、「戦後処理」の一貫として出来た制度である。給付要件が、大正15年(1926年)以前に生まれた人、つまり敗戦時に既に20歳になっていた在日外国人のみに限定されているからもわかるように、(はっきりとは明記されていないが)これは基本的には外国人一般ではなく、戦前に台湾・朝鮮半島など植民地から「日本国民」として渡ってきた人を対象にした制度である(「枚方市役所高齢社会室のページ」)。つまりこの「給付金」制度は、1990年代以降に急増した外国人労働者はもちろん、在日韓国・朝鮮人であっても70代以下の世代は無関係であり、有資格者も若くて80代後半になっていて、その人数もたかが知れている。だから、これを懸命に攻撃する「在特会」の主張は、「移民排斥」と一体化しているヨーロッパの福祉ショーヴィニズムと比べると、あまりに中身がないとしか言いようがない。

 また「在特会」とは逆に、「在日外国人にも年金給付を」という社会運動も存在していることはしているが(「在日外国人高齢者・障がい者無年金問題のページ」)、ごく小規模でメディアもあまり取り上げていない(主張の是非についても、厳密な判断は法律の専門家に任せるしかないが、正直言ってあまり説得的には思えない)。当然ながら、こうした動きに反発する福祉ショーヴィニズムの運動が、社会的に盛り上がるはずもないわけである。

 もう一つは、今年の7月に大阪市で起こった、来日したばかりの中国人48人が生活保護を申請して一旦は受理され、市長がそれを不正であるとして即座に取り消したという事件である(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/438790/)。この事件に対してネットを中心に見られた反応は、「財政が厳しいなかで日本国民でも簡単に受けられないのに」という、まさに典型的な福祉ショーヴィニズムのそれであった。たとえば、ある「ネット右翼」系の人気ブログでは「日本の憲法を遵守せず、日本社会を嫌い、あるいは侮辱、敵視し、一国の中にそれぞれの別国家を形成するかの傾向が特に強い特亜の外国籍者を、日本に来たからといって、それが親族である、との言い分をもとに、さしたる検証の跡も伺えず、直ちに「生活保護」受給の対象とする」ことは、「日本の財政は貧窮に瀕する」「日本国民のための「高齢化社会」は吹き飛ぶ」結果を招くと批判している(http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-3594.html)。

 生活保護は受給要件が厳しいと言われているが、逆に言うと要件さえ形式的に満たせば、事情がどうであろうと国籍とは無関係に受給することができる。特にこの問題では、「貧困ビジネス」系のブローカーが、生活保護申請の手引きをしていたと言われている。生活保護有資格者に外国人は少なくないが、それは仕事だけではなく頼るべき親族や友人もいない、文字通りの「貧困者」が日本人に比べて相対的に多いという以上の意味はない。「外国人だから甘い」わけでは決してないことは明らかだが、多くの人は「われわれ日本人には厳しいのに」と、ナショナリスティックなルサンチマンを募らせる結果になっている。

■日本で福祉ショーヴィニズムが盛り上がる可能性

 こうした福祉ショーヴィニズムは、日本ではネット上で断片的に見られるだけで、あくまでごく一部にとどまっており、ヨーロッパのように、こうした主張を直接代弁する政治勢力は存在していない。日本で福祉ショーヴィニズムがさほど盛り上がらないのは、そもそも外国人労働者の数が(法的あるいは言語的な障壁のために)EU諸国などに比べて相対的に少ないこと、そして日本における「ナショナリスト」の関心が軍事・外交・歴史などの問題に集中していて、福祉の問題にはほとんど無関心であることがある(可能性としては、保守ナショナリストの平沼赳夫と福祉国家志向の与謝野馨が共闘している「たちあがれ日本」だが、福祉ショーヴィニズム的な主張は一切なく、それ以前に世論の支持をほとんど得られていない)。

 では、日本で福祉ショーヴィニズムが支持を集める可能性は皆無なのかというと、もちろん状況によってはあり得ると考える。それは、まず単純労働を中心とする移民の受け入れ政策が大規模に展開された上で、同時に社会保障給付の抑制・削減が進められる場合である。つまり、政府の支援を求める生活困難な在日外国人が増えると同時に、日本国民の側が「長年まじめに年金を払ってきた自分たちだって減らされているのに」と反発するというシチュエーションである。移民受け入れと社会保障の抑制を同時に唱える政治勢力は(主張そのものは「リベラル」であるが)日本の中にも一定数存在するので、こうしたシチュエーションが出来上がる可能性は皆無ではない。簡単に言えば、「バラマキ福祉をやめて、単純労働の移民もどんどん受け入れて、そうした移民との競争を通じて経済の活性化をはかるべき」という政治的主張が(特に今のデフレ不況下で)現実化するようになれば、日本でも福祉ショーヴィニズムが吹き荒れるようになると考えられる。

■心配される日本の政治情勢

 将来、緩やかであるとは言え、日本社会のなかに移民が増える傾向が逆流することはないだろうし、それ自体はある意味で好ましいことではある。そうだとすると、これが福祉ショーヴィニズムの火種になることを未然に防ぐには、いわゆる「大きな政府」にしていく、つまり社会保障制度を通じて外国人の社会的な包摂・統合を図っていくことが現実的な対応であろう。前回、「福祉国家は反ナショナリズム的」という言い方をあえて行ったのは、こうした問題意識に基づくものである。

 ただし、社会保障を通じた在日外国人の社会的な包摂・統合を実現する場合、税と社会保険を通じて「国民負担率」を高め、「負担の再分配」を通じた社会的連帯の構築を政治的に実現していく必要がある。この点で最も心配されるのは、今の日本では、これとは正反対の方向の政治勢力が、「負担増の前に無駄遣いの削減を」というスローガンとともに、相対的に高い支持を得ている状況にあることである。

 日本国民の高齢者への福祉給付が抑制され、低賃金の若い世代が保険料負担の重さに不満を抱えるなかで、というよりもそうした不満を政治家やメディアが煽るなかで、国の福祉に依存するような低賃金外国人労働者が増えるようなれば、福祉ショーヴィニズムに火がつくようになることは確実である。「無駄遣い」の矛先は、いまのところ「天下り」「公務員の給与水準」のような問題に集中しているが、何らかのきっかけで移民や在日外国人の福祉に向く危険性はないとは言えない。

 今のところ、日本で福祉ショーヴィニズムが盛り上がっていないのは、ある意味で「幸運」なこととも言えるが、別の側面から見れば、「負担の再分配」を先送りしてきたことの問題の顕在化を阻害してきたと言うこともできる。つまり、社会保障の問題が「外国人」を焦点にして起これば、それは不当な差別や社会統合の危機の問題として意識され、政治がそれに対処すべき問題として扱われた可能性があるが、日本では社会保障の不足が自国民つまり若年非正規雇用に集中的に起こっているので、依然としてそれが社会統合の危機の問題として、政治家・官僚にも国民の側にも意識されずにいる(せいぜい「世代間格差」という比較的穏健なテーマに収斂してしまう)わけである。

■「ワークフェア」「ベーシック・インカム」との関係

 最後に、「ワークフェア」「ベーシック・インカム」と福祉ショーヴィニズムの関係についても簡単に述べておきたい。宮本太郎氏によると、北欧で1990年代以降に支持を拡大しつつある福祉ショーヴィニズムは、北欧諸国におけるワークフェア原理の強さが移民の福祉への「ただ乗り」を許容させないためであると説明されている(「新しい右翼と福祉ショービニズム」斎藤純一編『福祉国家/社会的連帯の理由』ミネルヴァ書房、2004年)。日本にも、「仕事なんか探せばいくらでもある」的な、独特のワークフェア文化が強固に存在するので、上述の生活保護集団申請のような事件が頻発すれば似たような状況に陥る可能性は高い。
 
 では「ベーシック・インカム」が、福祉ショーヴィニズムを超克するものなのかと言えば、自分はそうはならないと考える。ベーシック・インカムも、財源が中間層の相対的に高い税負担に依存する以上は、「ただ乗り」批判が完全に免れることはないだろう(自分の見るところ、BI論者の多くはこの問題を軽く考えすぎているように思われる)。それに前回も述べたとおり、ベーシック・インカムは給付の範囲の明確さや厳格さを、就労実績などによって段階的・間接的にではなく、純粋に政治的に直接決定しなければならないので、誰が正当な給付資格者なのかということをめぐって、ショーヴィニズムがいっそう激化する危険性も否定できない。

 宮本氏が指摘するところでは、スウェーデンのようにワークフェアの重点が業績原理よりも就労支援に置かれるようになれば、ワークフェアは福祉ショーヴィニズムの防波堤ともなりうるという。政策論としてはワークフェアを基本としつつ、その暴力的側面をベーシック・インカムの哲学で緩和するというのが中途半端な自分の立場だが、これについてはまたあらためて考えたい。

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ナショナリズムと福祉国家

ナショナリズムと福祉国家の関係

 「福祉国家」や社会保障の問題を学んでいる人は、それがしばしばナショナリズムと結びつくという問題に直面する。古いところでは、スウェーデンの経済学者であるグンナー・ミュルダールが提起した、「福祉国家の国民主義的限界」問題が有名である。ナショナリズムと福祉国家の関係は、一般的に言うと、以下の二点にまとめることができる。

 第1には、国家が再分配活動を行うためには、社会サービスの給付の権利を有する成員資格を、明確に定義しておく必要がある。たとえば企業の場合、株式を購入する権利は原理上万人に開かれており、成員資格を事前に定義しておく必要は基本的にないが、国家は保険証や年金手帳を給付する範囲をあらかじめ決定しておかなければならず、その際の定義の根拠として「民族」が持ち出されることになる。

 第2に、税や社会保険の負担を国民全員が等しく共有するための、連帯と共同性の基盤としてである。たとえば、富裕層が低所得者への再分配に応じるとしたら、それは「同じ国の一員だから」という以上の合理的な理由で説明するのは難しい。統治者の側がそうした理由を押し付けることもあるし、世論が「おなじ国民なのに」という理由で、税や社会保険を「平等に負担」するように圧力をかけることもある。

 ちなみに、第1の点に付け加えると、社会保険のような間接的な再分配よりも、「ベーシックインカム」のような直接的な再分配ほどナショナリスト的にならざるを得ない。それは、社会保険の場合は給付資格要件として保険料負担の実績が第一に考慮されるが、「ベーシックインカム」の場合は、否応なくメンバーシップに一元化されてしまうからである。これは濱口桂一郎氏が「ベーシックインカム」批判で提起した論点である(それが「危険」であるかどうかについては判断を保留しておく)。

現在においても果たして自明なのか

 ナショナリズムと福祉国家の関係は、『ベヴァリッジ報告』に象徴されるように、また日本の国民健康保険が戦時中の人口増産政策と連動して成立・普及したように、総力戦体制の中で最も強力に表現されたものである。とくに1970年代以降の哲学や社会学では、フーコーの「生権力」概念などに依拠する形で、「福祉」の名の下による国家による生の強制や画一化といった問題が批判的に語られるようなった。福祉国家が成立する段階において、「民族」「人種」の観念に基づく優生思想や隔離政策が大きな役割を果たしていたことは今更説明するまでもない。

 しかし、上述のようなナショナリズムと福祉国家の積極的な関係は、現在においても果たして自明なのだろうか。もちろんナショナリズムを広く解釈すれば、「人口」をターゲットとする少子化対策は、その中身が何であろうと戦時中の「産めよ殖やせよ」政策と同一線上にある、ということになるだろう。ただ、そうした広い解釈をとりはじめると、おそらくナショナリズムと無関係な社会保障政策は一つもなく、ひいては近代社会そのものがナショナリズムに汚染されているという結論にならざるを得ない(そういう議論が流行った時期もあったが)。

あえて否定的な関係として理解する

 では「ナショナリズム」を、より一般的に用いられているように、「外国人」に対する嫌悪感や競争意識に基づく攻撃・排除という意味に限定すればどうであろうか。それは「場合による」としか言いようがないが、ここでは両者の密接な関係を強調してきた従来の左派系の学者の議論に対する批判の意味も込めて、あえて否定的な関係として理解しておきたい。その理由は以下の通りである。

 第1に、日本を含めて現在の先進諸国の社会保障制度は、既にナショナリティは社会サービスの受給資格要件として機能していない。多くの国では、ナショナリティと市民権との結びつきは、もはや選挙権(特に国政選挙権)の他には、オリンピックやW杯のナショナル・チームの参加資格といったものに限定されるようになっている。だから現在、社会保障の充実を政策課題として掲げる場合、それは必然的に外国人の社会的な統合・包摂を志向するものになる。事実、EU諸国が必要以上に社会保障が充実しているように見えるのは、民族問題という歴史的な背景を抜きには語れないであろう。

 第2に、世界各国で社会保障制度が整備されるようになれば、国境を超えた人の移動、特に従来のような富裕層や最貧困層以外の労働移動が促進される可能性が高い。とくに、北欧モデルのように社会保障制度の出発点に「教育」があるとすると、教育水準の向上は外国語の習得可能性を高め、結果として外国への労働移動のチャンスを増やすことになるはずである。福祉国家と「グローバル化」とは、相反するというよりも親和性が高いと理解すべきである。

 第3に、社会保障制度の維持・強化を目指す過程でナショナリズムが語られているのか、それともあくまで福祉が、ナショナリズムが発露する(主要な)「舞台」の一つになっているに過ぎないのかは、慎重に区別して論じる必要がある。私の評価では、いわゆる「福祉ナショナリズム」というのは、基本的に後者のケースが大多数だと考えている。つまり、社会保障への利害関心から外国人へ反感が派生したというよりも、もともと外国人への反感を抱いていた人たちが、たとえば社会保障財政の逼迫が政治的な話題になった時に、「移民が国の福祉にただ乗りしている」という攻撃を繰り広げていると理解したほうがよい。「福祉ナショナリズム」の多くは、政治的な志向性としては概ね反福祉的である。そもそもミュルダールの「国民主義的限界」も、「ナショナリズム」というよりも「内向き志向」ぐらいの意味に理解すべきものである。

 最後に、特に現在の日本におけるナショナリズムでは、社会保障の問題はほとんど無関心である。おそらく、北一輝や戦時中の厚生官僚の言説にまで遡らないと、両者の密接な関係は見えてこないだろう。可能性としては岸信介だが、そもそも彼は「反共」であったかもしれないが、狭義のナショナリストと言えるかどうかは微妙である。

反省しなければいけない問題

 福祉とナショナリズムの組み合わせは意外性を喚起するので、両者の密接な結びつきを強調したがる人は(特に人文系の知識人に)少なくない。実のところ、自分もそれに少なからず影響されていたのだが、しかし今振り返ると、個人的にはその不毛さのほうが目立っているように思う。また福祉国家の限界を語る、それ自体は真摯な問題意識に基づく議論が、「多様な生の自己決定」の名のもとに、福祉給付削減の論理と図らずも共振してしまったことも、反省しなければいけない問題である。ミュルダールの「国民主義的限界」を超えた「福祉世界」への展望も馬鹿にできないとは思うのだが、今のところは、生活・生存の保障がナショナリズムの攻撃的・排他的側面を緩和する可能性がある(実際緩和に成功してきた)ということを言えれば十分であると考える。

追記:

 コッソリ書いたつもりが、濱口先生に大々的に取り上げていただくはめに・・・・。恐縮で脂汗が。

 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-aa63.html

 グウの音も出ない感じですが・・・。とくに第3の論点ですが、確かに「福祉ショービニズムをあおっている政治家やイデオローグ」だけを念頭に置いていて、つい世論の問題を抜かしてしまいました。世論については全くおっしゃる通りで、確かに世論にとってナショナリズムは後からくっついていくものです(日本では多分公務員たたきになっているんでしょうが)。これはまた、機会を改めて考え直したいと思います。

 上の文章で問いたかったのは、要するに現代社会で「福祉国家」形成を促進すると、(狭義の)「ナショナリズム」が激化するかのか否かという問題で、それが否定的であるということを「あえて」指摘したかったということです。というのも、福祉国家とナショナリズムの関係が問題にされるときに、「福祉国家の原罪」(「それを意識していないと暴力に容易に転化するぞ」)みたいな語られた方が多くて、それに多分に影響もされているんですが、なんかそういうものにややウンザリしているところもあって、それとは違う話を思いつきで書いたわけですが・・・・・・。

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現代日本における民主主義の危機

「無党派層」の消滅

 2005年の「郵政解散選挙」以降、日本の民主主義が明らかにおかしなことになっている。選挙のたびに極端な結果が出現し、それが1年も経たないうちに失望や幻滅へと急転直下するという、その繰り返しになっている。多くの国民・有権者が、どの政治家や政党を支持したらいいのかについて、完全に途方に暮れている状態であると言ってよい。

 これは、従来言われてきた「無党派層化」なのではない。無党派層とは既成政党の「間」をとるという意味であるが、今の有権者はむしろ、その時々の選挙で自民党や民主党の熱狂的な支持に回っている。そして、その支持が1年と続かないところにも特徴がある。無党派層とは、あくまで既成政党の支持が安定している時代に意味をもった概念であり、現在は無党派層が消滅したと表現したほうが適切である。

「構造改革」と政治疎外

 どうしてこんなことになっているのか。私はやはり、一つに橋本政権から小泉政権に至るまでの「構造改革」に原因があると考えている。「構造改革」では公共部門の「民営化」が進んだが、それによって公共的な問題に対して政治が関与できる領域が狭まってしまい、結果として一部のブレインや財界関係者による(責任の伴わない)独断的な政治が強まった。「民営化」それ自体は民意の支持の下に推進されたものであるが、皮肉にも、そのことが国民の間に強い政治的な疎外感を生み出すことになったのである。

 「かんぽの宿」の売却問題が、この矛盾の象徴である。本来なら、とくに有権者が「郵政民営化」を支持したなら、経営者が市場価格に基づいて施設を売却することを非難するのはおかしい。しかし、世論は公共的な財産が一部の利害関係者のほしいままにされている、と強い反発を示した。「構造改革」を支持してきたエコノミストたちは、世論に対して「売却は当然」と強く反論したが、それ自体は正しかったとしても、民営化が「民主的なコントロールからは離れる」という側面があることをきちんと説明してこなかったことは、彼らの大きな責任である。

 地方政治もそうである。規制緩和の流れの中で、東京資本の大型店舗やコンビニが地方の風景を席巻して日常生活に欠かせないものになった。そのことは、いわゆる「まちづくり」が、東京の高層ビルの会議室における決定に大きく依存するようになり、地域住民が主体的に関与する余地が少なくなったことを意味している。いま「地域主権」を掲げる政治家たちは「霞が関」批判が中心で、こうした問題についてはまるで無関心であるのが不思議である。

 そして最後に、大幅な歳出削減と増税回避(むしろ減税推進)が、結果として政治が関与できる領域を著しく狭めている。つまり、住民が政治に何かを求めようとしても、「財源がない」ということで、一方的にはねつけられる局面が増えているのである。例えば銚子市では、地域で唯一の総合病院の存続を住民が圧倒的に支持し、その存続を公約に掲げた市長が当選にしているにも関わらず、財源問題によって廃止されてしまったわけである。

「脱官僚」と「友愛」の矛盾

 鳩山民主党政権では、以上のような「構造改革」による政治疎外を埋めるべく、「脱官僚=政治主導」と「友愛」のスローガンを掲げている。しかし今のところ、「友愛」は政治的な混乱にさらに拍車をかけている状態にある。これについて、『現代思想』2月号で野口雅弘という政治学者が、日本の政治における「脱官僚」の矛盾を鋭く指摘していて興味深かったので(「「脱官僚」 と決定の負荷 ― 政治的ロマン主義をめぐる考察」)、それに即して述べておきたい。

 「脱官僚」というのは、政治的な決定の領域が拡大するということであるが、政治というのは、カール・シュミットによれば「敵」が誰であるかの「決断」を回避することができない。野口氏によると、鳩山政権における「友愛」のスローガンは、「敵」を作らないがための際限のない決断の先送りを生み出し、相対的に声の大きい人物(亀井静香など)の存在感を異様に高める結果だけになっているというのである。

 さらに上述のように、政治的な決定の領域そのものが、「構造改革」のなかで急激に狭まってしまっている。「脱官僚」がそのまま「政治主導」にならないというジレンマのなかで、国民の政治的な疎外感は一向に解消されず、「決断不足」ばかりが目立つようになっているのである。

「決断主義」のポピュリズム

 以上のように、現在は「構造改革」の中で深まった政治的疎外と、民主党政権における不決断とが重なって、途方もない政治不信を生み出している状態であると言ってよいだろう。その結果として、政治理念や政策そのものの評価ではなく、「決断力がない」「政治手法が古い」というただそれだけの理由で、内閣支持率が急落するようになっている。郵政社長の人事問題、「小沢支配」の問題、普天間基地の移転問題などはすべて「決断力のなさ」や「政治手法の古さ」によって批判された問題であり、それらの問題を具体的にどうしたいのかについてはさっぱり語られない(少なくとも盛り上がっていない)という状態にある。

 いま国民から拍手喝采を受けている「民主主義」とは、小泉元首相が採ったような、まず「危機」や「非常事態」を宣言した上で、わかりやすい「敵」を設定して一方的に攻撃するというものである。まさにシュミットの「決断主義」をポピュリズム化したような手法である(周知のようにシュミット自身この誘惑に負けてしてしまったのであるが)。ただし、自民党の「古い政治」の派閥抗争のなかで鍛えられてきた小泉元首相には、よくも悪くもユーモアやいい加減さがあり、清濁併せ呑む懐の深さがあった。この「決断主義」が、近年だんだん生真面目になっている傾向があるように思われるのだが、それには非常に危険なものを感じる。

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«市場競争下の「引き下げデモクラシー」